愛知県碧南市 お不動さんが雷を怒鳴りつけ叱る 民話に登場するスター

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東浦のお不動さん

平七新田完成の記念地に「お不動さん」 複雑な経緯は説明を困難にする

拝殿前、遊具のある広場

<碧南の民話「東浦のお不動さん」が祀られている平七の神明社跡。平七新田完成の寛文3年に勧請され、昭和22年に津島社と合祀し、霞浦神社となるまでの284年間、平七の氏神「豊受姫命」が鎮座していた場所である> 米津・碧南線沿いにある歩道橋横に鳥居と社。入口には「不動明王・由緒」と刻まれた石盤がたつ。 元々この地は、寛文3年(1663)6月に平七新田完成を機に当地へ勧請された「豊受姫命」を祀る神明社であった。 社の南、人目の付かない場所に「村社 神明社」(大正2年1月建立)の石柱がある。はめ込まれたプレートには「昭和二十二年氏子の総意により神明社祭神を霞浦神社に合祀 神明社あととしてこれを残す 平成九年十月」とある。 現在、この社に鎮座しているのは「東浦のお不動さん」。もとは今「家族の肖像」モニュメントある三角地にあり、昭和26年(1951)の市道拡張の際、当地へやって来た。 他に境内には中根又左衛門親忠が前浜新田に創建した由緒を持つ稲荷社があり、明治43年(1910)6月20日に勧請された。 平七新田の歴史を物語る重要な地であるが、入れ替わり立ち替わりと何かと複雑な場所でもある。

平七神明社跡裏の閑静な住宅街

<平七の神明社に老松が存在しない理由とは? 明治9年に起こった事件がもととなり、東浦と平七に確執が生まれる。勝手に村名を「平七村」としたのに反発し、東浦の若者が報復。事態は伏見屋新田・伏見屋外新田の仲裁により和解するが> 平七新田の竣工を祝い、寛文3年(1663)6月に勧請された平七の神明社。今でこそ霞浦神社に合祀され、お不動さんを祀る社となっているが、350年近く神聖な地として崇められた場所である。 歴史ある境内ならば、老松の一本でもあるはずなのに見あたらない。それは何故か?  明治9年(1876)、愛知県からの「地租改正」指導により、平七と棚尾は互いの飛地を交換し、棚尾の一部であった東浦は平七と一緒に村を作ることとなった。 その際、村名を「平七村」として平七側が愛知県に届け出た。怒ったのは東浦の人々である。 「では代償として平七の神明社を学校用地に差し出せ!」と迫る。断固拒否する平七の人々。ある夜、先走った東浦の若者達が神明社を襲い、境内の松を全て切り倒すという暴挙に出た。 この争いには、合併と編入という双方の見解の違いが主たる原因。当時、東浦243戸で平七は69戸。しかし平七は一人当たりの資産額が東浦を遙かに凌ぐ。 世帯数対資金力という構図も見え隠れする。後に訴訟まで発展するが、明治21年(1888)11月に伏見屋新田・伏見屋外新田の仲裁が入り、一応の和解を見せた。 このような歴史を持った平七村も明治22年(1889)には他の村と合併し「志貴崎村」、明治39年(1906)には「旭村」となっていく。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

平七新田(へいひちしんでん) 棚尾に居住していた稲生平七郎が承応年間(1652~1655)に東浦海岸に続く湿地を測量し小規模な開拓を行う。 承応3年(1654)に試しに稲を植えたところ、良好な結果がでる。翌年の明暦元年(1655)から本格的に開拓を始め、 他に林勘兵衛・間瀬弥左衛門・大脇六右衛門らも加わり、寛文3年(1663)に17町歩の平七新田が完成した。 棚尾村から13軒が移り住んだ。一説によるとこの人達は関西から移住してきた人々という話も伝わる。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

ひっそりとたつ稲生社

「稲生平七郎」

棚尾から鷲塚へ向かう旧道沿いに1つの社がある。安政2年(1855)3月建立の巨大な常夜燈があるだけでいたって普通の社。 だが、ここに祀られているのは、平七新田を開拓した稲生平七郎である。平七新田は、明暦元年(1655)から計画が進められ、寛文3年(1663)に入植が始まった碧南市域で一番最初の新田。 後世に多大なる富をもたらした平七新田の成功は、のちの伏見屋新田、前浜新田開発へと繋がる。 稲生平七郎は、刈谷市・小垣江の竜江寺檀家、稲生家の2代目という事しか判明しない、正体不明の人物である。 平七新田の竣工間近である明暦3年(1657)2月21日に没す。 昭和30年(1955)9月23日、平七の人々は平七新田開拓350周年を祝い、稲生平七郎に深く感謝の意を表した。

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