愛知県碧南市 東浦のお不動さん発見場所はこの辺りか?「霞浦神社」

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霞浦神社 (かほじんじゃ)

もとは「東浦のお不動さん」を祀った 東浦と平七の氏神として新たに歴史

神社拝殿

<かつては「東正寺」と同じ「東浦のお不動さん」を祀っていた。慶応4年の神仏分離令により、津島社へと変わり、さらに昭和22年の平七・神明社合祀で現在の「霞浦神社」に> 県道、米津碧南線に面した東の鳥居。ここは東浦・平七の氏神様が祀られている「霞浦神社」である。 北にある「東正寺」とは有縁であり、創建は共に文治2年(1186)とされる。ある時代に石川日向守宗成の子孫が坊と不動尊を分け、長らく東浦は不動尊を氏神としていた。 しかし、慶応4年(1868)から始まる”神仏分離令”によって、新たに津島神社から御分霊を勧請して東浦の氏神「津島社」となる。 そして昭和22年(1947)に平七の神明社を合祀した際に、名を「霞浦神社」と改めた。 「霞浦」とは、かつてこの地が”霞がかる神秘的な場所”であった事に由来する。 ちなみにここから北東へ300メートル離れた日進小学校は、もと「新田の池」が存在した場所であり、この池は平七新田開発の際に土砂を採掘した跡だったという。 拝殿の東奥には「旭東公神社」の社がひっそりと佇み、また東正寺へと続く道は実に情緒的。その先は「そう助が狐にばかされた」昔話の場所でもある。

樹齢600年のけやきの木

<碧南市でもっとも古い木が霞浦神社境内にある。高さ15メートル、樹齢600年の「欅」。拝殿新築の際に切り倒される運命にあったが、人々の熱意により、難を逃れる> 霞浦神社境内の「欅(けやき)」である。その樹齢、推定600年とされる。碧南市域最初の新田である平七新田が完成したのが寛文3年(1663)。 ということは、この欅は当地が海岸線であった頃には存在していたことになる。 高さ15メートル、幹回り4.6メートルという大樹であり、碧南市指定の天然記念物である。 昭和30年(1955)8月1日に防護柵が造られて、さらに現在、幹には注連縄が施され、根元には天保10年(1839)と刻まれた水鉢が置かれている。 いかに地元の人々に愛されていることか。欅を巡る逸話が伝わる。昭和2年(1927)に当時まだ津島社であった拝殿を新築する計画が上がる。 著名な設計士に頼み、壮大な建築物が造られようとしていた。ところが屋根の部分がどうしても欅の枝に掛かってしまう。そこでこの際、欅を切り倒す案が出た。 しかし欅を愛する地元の人々は大反対。結局、人々の熱意に打たれ、設計士が譲歩する形となり、欅は切り倒される難を逃れた。

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東浦(ひがしうら) もとは棚尾村の一部で、”丸い台地に尾が付いた”ことに由来する棚尾の地名の「尾」に当たる部分が東浦に相当する。 東浦という地名は、矢作新川(現在の矢作川)が慶長10年(1605)に開削され、平七、伏見屋新田などが築かれる以前に東の海に面していたことから。 ちなみに油ヶ渕は閉じられる以前、北浦と呼ばれていた。東浦に人が住むようになったのは、寿永年間(1182~1184)の頃といわれる。 棚尾より、金原治右衛門・金原権右衛門・金原九左衛門・鈴木九右衛門の4軒が移り住んだことに始まる。ゆえに彼らの住んでいた場所は四軒家と呼ばれた。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

古めかしい石垣のある用水

「日進ポケット広場から南へ」

かつては生活用水を挟んで民家が並んでいた東浦町界隈。日進ポケット広場と呼ばれる三角地には、碧南市が推進した”彫刻のあるまちづくり”事業の第9作「HEKINAN或る家族の肖像」(鈴木実)の作品が展示されている。 昔、この場所に「東浦のお不動さん」が鎮座していた。東には安政3年(1856)建立の秋葉山常夜燈があり、続く「日進堂」や「魚清商店」の雰囲気など、在りし日の昭和を感じさせる。 南へ向かう旧道は水路が僅かに残っており、趣ある道となる。その主となる存在は、風情ある石垣を持つ「八重酒造味淋」の建物。 天保8年(1873)に七之助商店として創業した歴史を持つ。春には桜の花びらが水路へと舞い、情緒的な景観を臨むことが出来る。 旧道は東正寺前へと出るが、途中にある「宮下橋」の欄干にも注目。昭和6年(1931)に改築されたままの姿を今に残す。

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