愛知県碧南市 まるで気分はストレンジャー 東浦の旧道を歩いていけば

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東浦の旧道 (ひがしうらのきゅうどう)

いつしか忘れたあの日へと戻る喜び 「かあちゃん」のいたあの時代へ

旧道を横切る黒猫

<歴史的な西洋様式建築「山中従天医館」脇を北へ。集落を縦に走る旧道は雰囲気良し。道脇にある樹木が作り出す木陰、長屋門様式の住宅が続き、「いつか過ごしたあの日」の記憶蘇る> 歴史を感じさせる西洋建築『山中従天医館』の東に集落の奥へと続く坂道。 自動車のすれ違い困難な道幅、先を見渡すことの出来ぬ道の湾曲は旧道の証である。 歩き進めば、どことなく懐かしい感じ。今では少なくなった長屋門様式の家が数多く見られる。 チョロチョロと流れる水の音、食器の重なる音、「かあちゃん」を思い起こさせる音は、まだ世の中が幸せだった時代の記憶を蘇らせる。 歩く気分は、ランドセルを背負った昭和時代の小学生だ。

白壁から土が覗く通り

<6代目「中根又左衛門」、またの名を”中根楳堂”という。平七の大地主にして地域発展のために尽力し、刈谷の俳人・中島秋挙に師事、優れた作品を残す。崩れかけた土壁は中根楳堂の旧宅跡> 平七は迷路の様な小道が続く。迷いながらも歩くうちに、崩れかけた土壁を見つける。平七は新田開墾当初から富裕層が多く存在していた集落。富は代々受け継がれ、現在でも広大な敷地を持つ屋敷が建ち並ぶ。 昔、平七の有力な大地主のなかに「中根又左衛門・親孝」という人物がいた。平七での中根家の歴史は延宝元年(1673)に松平村から平七へ移住し、農業・差酒造業を始めたことによる。 中根又左衛門・親孝は、天明5年(1785)9月28日に中根家の分家に生まれたが、文政3年(1820)に本家に入り、6代目中根又左衛門となる。 平七の発展に深く寄与し、また「中根楳堂」と名乗り、俳人としても活躍した。天保12年(1842)4月2日、57歳で没す。墓は棚尾橋から500メートル下った先にある「中根墓地」に。 崩れかけた土壁は中根又左衛門、即ち、中根楳堂先生・旧宅の壁である。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

神明社前の歩道橋から見た道路

「家下川があったという話」

霞浦神社の東を通る県道「米津・碧南線」は、かつて存在していた川、「家下川」を埋め立て出来た道。 家下川は伏見・平七の人々にとって生活に密着した川だった。 伏見の稲荷神社で出会った老齢の婦人が話す。「昔は”いぎす”(肥料となる小さな貝)を満載した小舟が行き来していた。小さな頃、その船によく乗せてもらった」と。 川幅は現在の県道の半分ぐらいしかなかったという。また、川の東には家一つなく矢作川まで見渡せるほど良い景色だったとも教えてくれた。 今は碧南市南端の工業地帯から続く道に接続され、往来激しくなった家下川の跡である県道。家下川の役割を代替する水路は東へと設けられたが、往時を偲ぶ雰囲気は微塵もない。 いつの日か、この県道が川だったという歴史も忘れ去られる。

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