愛知県碧南市 昭和34年9月26日の記憶「伊勢湾台風」を忘れない 「防潮堤」

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防潮堤 (ぼうちょうてい)

泥海と化した希望の地 伊勢湾台風の教訓は「絶対の壁」として生きる

高いコンクリ壁、垂直にハシゴがたつ

<海の脅威から碧南市を守る。その強固なコンクリートの壁は碧南市の存在を死活する生命線である。あの日の教訓を決して忘れないようにと今日も南の海に立ちはだかる。その圧倒的な存在感は「守護神」のごとく> 川口町の住民にとって決して忘れられない日、それは昭和34年(1959)9月26日の土曜日。伊勢湾台風が襲来。 築かれていた干拓堤防が午後8時30分、決壊する。総延長1600メートルをも破壊した高波は濁流へと不気味に姿を変え、川口町の家、田畑、道、全てを呑み込んだ。 人々は、いつ崩れるかと怯えながら、唯一の道となった堤防をあてもなく北進したという。干拓の地である川口町は、その年の11月6日午後4時に796人の手によって堤防の仮締切が成功するまでの42日間、泥海となっていた。 その教訓から川口町では、三方を堅固な防潮堤で囲む万全の体制が整えられた。 この防潮堤が決壊するときは、世の末を迎えるときである。巨大にしてその姿は異様にして威厳がある。遙か遠くの波頭も見逃さぬ「南の守護神」とでも表現したくなる。 波穏やかな「凪」の日などは本当に気持にのどかな場所。知多や渥美の山々や浮かぶ貨物船などが遠望できて心癒され、ここが防潮堤の上であることも忘れる。 再び巨大な台風が来襲しても、防潮堤は「絶対の壁」として、きっと守ってくれる。

大きく半円を描く防波堤

<目撃例多数!密かにやってくる超高性能な自動車たち。甲高い音を響かせ、農作業に勤しむおばあちゃん達を驚かせる。「もし通行し事故のあった場合は一切責任を負いません」の警告は決して脅しではない> 川口町で農業を営む知人の証言。「ジェット機のような音が遠くから聞こえたと思ったら、低く平ぺったい車が、物凄いスピードで走り去っていった」  間違いなくあれは、イタリアの超高性能車、”ランボルギーニ”だという。 川口町を囲む堤防に沿って幅6メートル程の道は、円周上の対地点を常に見渡せるというオーバルコースに似た条件。 聞けば、自動車雑誌の世界でしか見た事のない自動車が、多くは平日に姿を現すという。 しかし、この道路は農林水産省管轄であり、「一般の自動車はご遠慮下さい」と警告される。 万が一、事故に遭う事になれば全て自己責任を負わなければならない。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

矢作川の砂浜とうち捨てられた船

「矢作川」

奥三河を源とする矢作川は、碧南市の最南端・川口町で三河湾に注がれる。現在、碧南市と西尾市の間に流れる矢作川は、 慶長10年(1605)に安城市の木戸町と西尾市の米津町の間を開削し、海へ川の水を流したことに始まる。 矢作古川河口の村々に起こる水害を防ぐ事が目的であった。 矢作川は「砂川」とも呼ばれ、奥三河から運ばれる流砂によって、北浦という入り江は油ヶ淵となり、 伏見・平七などの新田も出来た。昭和50年代まで矢作川中州の砂は、粉とも表現出来る程、綺麗なものだった記憶がある。 この砂が結構な曲者で、一見安全な浅瀬も、実は底なしであるという事例もあり、水難事故も度々起こっている。 川口町の堤防から矢作川大橋までは、砂浜があり風光明媚な場所ではあるのだが。

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