愛知県碧南市 「射小屋」・「南山矢取塚」が有名 「大浜上の熊野神社」を訪れる

碧南市大浜北部へようこそ!

大浜上の熊野神社

大浜上区の氏神様 空気を劈く音が迫力「奉射神事」は徳川家康にも縁

熊野神社の拝殿

<天喜2年(1054)9月9日、遭難を免れた源頼義が熊野権現に感謝し、辿り着いた大浜の地に社殿を創建。時の支配者とも関係が深く、天文18年(1549)に織田信長に通じた神主「河合惣太夫」は職を解かれ、神領を没収されたりと戦国時代には波乱の時も> 天王から程近い場所に大浜上区の氏神様「大浜上の熊野神社」がある。 源頼義が熊野権現の神力によって深く感銘し、紀州熊野本宮より勧請した由緒を持つ。 神社のすぐ西はかつての海岸であり、大浜上の熊野神社は新須磨海水浴場に隣接していた。 その海岸線跡を示す堤防沿いの道から、大浜上の熊野神社境内へと向かう。 現在ある駐車場は海のあった時代に入江であり、那智社が祀られていた。 階段を上れば現れる荘厳な社殿。素晴らしい装飾の屋根に大浜で最初に造営された神社の格を見る。 古くから時の権力者に深く関わった大浜上の熊野神社。戦国時代の天文16年(1547)に織田信長は初陣を迎える。 神主「河合惣太夫」が、当時大浜を守っていた「長田重元」の留守を信長に密告し、好機とばかりに織田信長は家臣と共に大浜へと攻めてきた。 裏切り者として神主の職を解かれ、大浜を追放されてしまうこととなる。そんな史実が大浜上の熊野神社にはある。

弓矢の的

<昭和30年(1655)に愛知県の文化財に指定された射小屋・南山矢取塚。奉射神事は平安時代から始まり、徳川家康が矢場の許可を出した事から盛んになる。祭礼時には弓に腕を持つ者が集まり、真剣な眼差しで的を射る。ビュンッと音を立てて目の前を飛んでいく矢の迫力> 大浜上の熊野神社には愛知県が指定する文化財、「射小屋」と「南山矢取塚」がある。 祭礼時にはこの場所で弓の腕が競われ、奉射神的が行われる。 平安時代から行われたという大浜上の熊野神社の奉射神事。より盛んになったのは、永禄3年(1560)に徳川家康が参拝した際、 矢場の許可と弓の免許状を与えたことによる。射小屋は江戸中期の築造とされ、全国的にも貴重なもの。 祭礼時には射小屋より32メートル先の的に向けて、真剣な眼差しで弓を射る者達が腕を競う。 目の前をビュンッと越えて矢の迫力は日常では味わえないドキドキ感がある。矢取塚の穴からキョロキョロと覗く目にも注目。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

大浜上の熊野神社(おおはまかみのくまのじんじゃ) 天喜2年(1054)、東国へ向かおうとした源頼義の船が台風で遭難しそうになるが、熊野権現に祈願して大浜の地へ辿り着く。 源頼義は深く感銘し、紀州熊野本宮より勧請して大浜の地に熊野神社を建立した。その時寄進した古鏡は現在も大切に保存されている。 天文19年(1550)今川義元は長田喜八郎を神主として神領を寄進する。 徳川家康が永禄2年(1559)に社領36石を奉納し、その後徳川歴代の将軍らが厚く祟敬した。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

地蔵堂

「発見!これが本当の大浜街道か!?」

現在の県道50号「名古屋・碧南線」は、かつて「大浜街道」と呼ばれた。 碧南市の大浜湊橋から、東海道の宿場町である名古屋市緑区・鳴海まで到達する街道である。 歴史は古く南北朝時代(西暦1336~1392)には存在。 明治の時代に県道として認定されると同時に新たなバイパス道などが整備される。碧南市内の区間は細かな変更点を除き、ほぼ現在の県道50号と同じとされていた。 だが一枚の地図によりその定説が覆されるかも知れない。平和用水史付属の明治38年(1905)以前の地図には、現在の県道西に並行して走る道が。 県道の真っ直ぐな道に対して、その道は時代を思わせる蛇行路。碧南市の道を一変させた平和用水敷設に従う区画整理施行後の現代において、驚く事にその道は分断されてはいるが現存している。 碧南マツダ隣の大浜熊野神社大鳥居から西へ中程まで進み、北を向けば現れる道。 どこか懐かしい風情、途中の地蔵堂など、本当はこの道が大浜街道ではなかったのだろうか?

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