愛知県碧南市 遺された四つの墓石を解き明かせ 「清浄院」の謎を巡る愉しみ

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清浄院 (しょうじょういん)

武士出身の住職が徳川家康を護る逸話 謎多い四つの墓石が興味を惹く

山門の飾り、玉に波

<山門の玉が波に乗る。整然とした境内は、寺名の表すとおり「清らかで汚れのない」雰囲気。徳川家康を岡崎まで護衛した住職は武士の出であったという。本堂裏の見事な一本松も、ぜひ見ておきたい> 湊橋の南、旧大浜警察署の斜め向かいに「南松山・清浄院」がある。 桟瓦葺きの簡素な山門がなんとも風情を伝えてくれる寺院だ。亀甲を見せる石畳を越えて行く。招かれるように清浄院の世界へと導かれる私。 境内を一望すれば、右手に弘法堂、左手に鐘楼、水屋の配置が見える。参道の先には、白木の風合い残る本堂が構えていた。 装飾は垂木・木鼻の一部を白く塗り、向拝所に素焼きの香炉ひとつ置くのみ。どこか凛然たる雰囲気漂うのはなぜか。 時は遙か昔、清浄院の歴代住職に武士出身の人物がいたという。「本能寺の変」が起こった当時、大浜へと逃げてきた「徳川家康」を、武士出身の住職は鷲塚まで護衛する。 その功により、後に清浄院は鷲塚地内に寺領を持つ事となった。

前田利家公先祖の墓と伝えられる墓石

<鎌倉時代初期の墓が4つ。前田利家公の先祖と伝えられる。何故この場所にあるのかは不明。一説には永正年間(1504~1521)に戦死した武士の墓だというが、はたして眠っているのは誰か?> 清浄院の山門を潜り抜け、右手にある弘法堂との隙間に入る。白壁に囲まれた八畳程の狭い空間が現れる。 6地蔵など、方々の地からやって来たお地蔵さん達が並ぶ。古い人形もあり、少し不思議な感覚にとらわれる。 清浄院によく見られるピンク色の花が地面を伝い、ある石垣を囲んでいた。 その石垣上には、四つの古い墓が左から大きい順に並んでいる。鎌倉時代初期、前田利家公の先祖の墓だと伝えられているが、本当のところは誰にも分からない。 清浄院は、建武元年(1334)に創建され、もとは平七(棚尾・源氏という説もあり)の地にあったという。いつの時代に、何のために大浜へ移ってきたのかも不明。 この四つの墓と清浄院の関係、歴史好きとしては大いに興味を惹くものである。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

清浄院(しょうじょういん) 建武元年(1334)に創建され、開基は雪山上人。大浜七ヶ寺朱印寺のひとつ。浄土宗鎮西派で、岡崎・大樹寺の末寺である。 創建当時は、平七村(一説には棚尾の旧字・加須)にあり、真言宗であった。大浜移転時に浄土宗となる。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

山門から覗く呉服屋さん

「その昔、僕は山門から臨む風景を楽しんだ」

平成17年(2005)まで素晴らしい風景があった。清浄院の山門越しに見える「富十呉服店」の歴史ある建物。 清浄院の山門と一体となり、実に風情ある景観が存在していた。この「富十呉服店」、大正時代からここに店を構えていたと聞く。 せっせと木枠ガラス戸を磨く店の御婦人に”大浜の女は男以上に働く”の言葉を思い浮かべた事が懐かしい。 だが楽しみは今も残る。清浄院山門に注目して頂きたい。恐ろしい形相の老婆と仮面を被ったようにも見える摩訶不思議な人物。 何を語るのか?「清浄院境内から一歩外に出れば、そこは魑魅魍魎の世界。すなわち人の住む世界こそ地獄なり」と言う事か。

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