愛知県碧南市 旅情誘う港の「赤煉瓦」 大正末期から昭和初期の大浜を伝える

大浜南部へようこそ!

赤煉瓦 (あかれんが)

大浜港の「赤煉瓦」は象徴的存在 「問半商店」は魚市場創生期に誕生

晴天に赤煉瓦の建物

<大正末期から昭和初年にかけて、大浜には西洋様式の建築物が建てられた。港町・大浜を物語る歴史的建造物として、観光名所の1つになっている赤煉瓦冷凍冷蔵庫もしかり。ボロボロの壁面だが幾度の災害を乗り越えてきた歴史。赤煉瓦冷蔵庫にまつわるオカルト話の正体> 大浜漁港の敷地に建つ赤煉瓦の冷凍冷蔵庫。今は現役を終え、港町・大浜の大切な遺構として、観光名所の1つとなっている。 元来、大浜港は今の浜寺町西にあった海岸を中心に栄えていた。港の機能が現在地の堀川左岸に移ってきたのは、大正から昭和初期の時代。 大浜の誰もが知る赤煉瓦冷凍冷蔵庫だが、建造年は不明。ある資料によると昭和2年(1927)に農林省より補助金を受け、海岸を埋め立てて貯蔵庫を建設したとある。 おそらくこの赤煉瓦冷凍冷蔵庫もその頃に建造されたと推測される。 現在の赤煉瓦冷凍冷蔵庫を観察してみる。南面に1つ、北面に上下2つの通用口があり、西壁は他の建物に隠され見えず、東壁は赤煉瓦が一面を覆う。 屋根の縁、浮き出た柱の仕様などは同時期の建造物と同じく、西洋様式に深く憧れを抱いた時代を如実に語る。 北壁最上部にある小窓。アーチ状にガラスがはめ込まれ、木製の通風板。 私が幼少の頃、この赤煉瓦冷蔵庫の小窓に「鬼の顔」が覗くというオカルト的な話が伝えられていた。当時は怖くて決して視線を上げなかった事を覚えている。 今にして思えば、閉じこめられる危険性のある赤煉瓦冷蔵庫に、子供が近づかぬよう考えられた作り話だったようである。<※注意:2010年2月末に完全に取り壊されました>

かつての岸壁だった堤防

<魚市場の歴史は寛延年間に始まり、寛政元年に磯貝半左衛門が問屋の形を整える。明治の時代から「問半商店」として長年続き、現在は「碧南魚市場」として取引に活発な動きを見せる> 大浜漁港組合の建物東向かいに銀杏の木。その下には大正9年(1920)11月建立の「紀功碑」。隣にある地蔵堂は「武地蔵尊」といい、昭和21年(1946)に建立された。 大浜港の護岸工事が行われた際、電線に触れて一人の男性が亡くなった。その霊を弔うために建てられたお地蔵さんである。 堤防には大浜小学校の生徒、5・6年生が、平成13年(2001)9月26日に完成させた「大浜と海」の壁画。 ここで出合う乳母車のおばあちゃんに話を聞いた。「ほう、問半商店なら、この向こうにあっただけんどなあ、へぇ~」との情報をもらう。 問半商店とは、漁業従事者と小売業者の間を仲介した問屋の名である。大浜での魚市場の歴史は寛延年間(1748~1751)に始まり、寛政元年(1789)正月に磯貝半左衛門が問屋という形態で事業を行いだした。 明治14年(1881)には大洲仙蔵が新規参入し、隔日交替で問屋業を行うが、後に磯貝半左衛門が「問半商店」として独占することになった。 旧暦正月元日と旧暦盆にあたる7月14日を休みとしてそれ以外は無休、日の出から午前8時まで取引が行われた。 昭和23年(1948)4月に「碧南水産株式会社」、昭和25年(1950)7月に「大浜魚市場」、昭和30年(1955)1月に「碧南魚市場」となり今日に至る。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

黒壁に木枠の窓の建物

「みなとの風情」

大浜港周辺に点在する港町風情を楽しむ。 潮風香る路地、浸食されたコンクリ、ザラザラした壁面。港町特有のコールタール塗装された黒壁は減少しつつあるが、それでもなお感じる心地良さは、 海の揺らぎをどこかで捉えている自分がいるためか。港界隈を歩く自分、旅情を誘うシチュエーションに期待を膨らませ、路地の奥へと向かう。 白長靴姿で水を撒く男、その向こうにいつの時代か、清涼飲料水「ペプシ」のブリキ看板。ベランダに洗濯物を干す光景は、どこか南イタリアの田舎を思わせる。 堤防沿い、観音寺別堂を覗けば、壁一面の人形群。まさに大浜のカタコンペとも表現すべき荘厳な雰囲気に圧倒される。 東では名産である「しらす干し」(ちりめんじゃこ)の天日干し作業風景に出会えた。<※注意:「ペプシ」ブリキ看板のあった建物は取り壊されました。

< text • photo by heboto >


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