愛知県碧南市 怒ると怖い神様 畏敬の念を持って訪ねる「大浜熊野大神社」

大浜南部へようこそ!

大浜熊野大神社(おおはまくまのだいじんじゃ)

伝説残る大浜下区の氏神様 「愛する気持ち」は奇跡を呼ぶ「加藤菊女」

神社拝殿の正面で狛犬さんと共に

<秋の祭礼には爆竹の轟音と酔っぱらいの怒号で大混乱…それも全て大浜熊野大神社・神様への感謝の印。粗暴な大浜下地区の民衆を結束させる強大なカリスマ性。訪れる際は決して粗相のないように注意されたし!!> 大浜の南端に位置する「大浜熊野大神社」。粗暴な気性を示す大浜下地区の民を束ねる神様は、実に偉大なる存在だ。 州崎に流れついた大木から、大浜熊野大神社の壮大な物語が始まる。 昭和の時代を迎えるまで、集落から遠く離れた辺境の地であった大浜熊野大神社。数々の謎めいた伝承が残り、未だ神罰を恐れる人達がいる。 境内西の竜宮伝説は、悲劇的な結末をもたらし神の力を示した。昭和8年(1933)10月8日の遷宮祭には、祝いの花火が暴発し死傷者を出す。 強大な力を持つ故に厳しさを併せ持つ…そんな神様がここにいる。だが、怖がる必要はない。無礼をせず、誠心誠意、拝み続ければ、大浜熊野大神社の神様はきっと願いを叶えてくれる。

大正時代建立の加藤菊女碑

<「孫市事件」により、流罪の刑となった夫の無事を願い、文箱を海中へと投じる。奇跡は起こり、夫は罪を許されて8年ぶりに大浜へ帰って来た。大浜熊野大神社西の海岸で遙か遠くの夫を想い続けた「加藤菊女」> 大浜熊野大神社の境内一画に「菊女の碑」がある。大正10年(1921)5月、碧海群の児童2万6千人の寄付により建立。 享保3年(1718)、江戸で袈裟を騙し取った僧を逃し、追っ手の役人に村人達が襲いかかった孫市事件の責任を負わされ、伊豆大島への流刑となった加藤友右衛門。 本来、処罰を受ける父親が老齢であった為、息子である加藤友右衛門が身代わりとなったのである。 享保元年(1716)に友右衛門の妻となっていた加藤菊女は、大浜熊野大神社の西にある海岸より、写経と手紙を詰めた文箱を海中へと投じ、毎夜お百度参りをする日々を送る。 ある日、加藤菊女の投じた文箱が伊豆大島へと流れつく。その奇跡と加藤菊女の夫を想う気持ちに、享保11年(1726)幕府は友右衛門の罪を許す。 夫婦となり2年の後に8年間も夫と離ればなれになった加藤菊女。 友右衛門と過ごした2年間が、いかに幸せな日々だったかを想像させる。 純愛という言葉を胸に、加藤菊女が文箱を流し続けた浜辺の跡を歩いてみたい。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

大浜熊野大神社(おおはまくまのだいじんじゃ) 仁安3年(1168)9月、州崎に数本の大木が漂着する。村人が見つけ引き上げようとするが、頑として動かず、しかも夜には光を放つ。 そこで当時、棚尾にいた長田白正が現地に向かい、全ての大木を小山へと引き上げる。そのうちの一本に「大一」の文字。 割ってみると「熊野権現」と書かれた宝剣が出てきた。そこで大木を引き上げた小山に、宝剣を御神体とした宮を造営し、仁安3年(1168)9月7日を創建の日と定めた。 現在の地へと移ったのは創建から約200年後のことである。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

加藤潮光先生作の裸婦像彫刻

「玉津浦海水浴場」

大浜熊野大神社の西は昭和30年代後半に埋め立てられるまで、「玉津浦海水浴場」があった。 今でも神社鎮守の森に残る「ヴィーナス像」は海水浴場時代に制作されたもので彫刻家・加藤潮光の作。 玉津浦海水浴場は大正4年(1915)に開かれる。大正10年(1921)8月2日には、日本赤十字愛知支部が夏期の林間保養所を開設し、玉津浦海水浴場で泳ぎを覚えて帰る子供も多かった。 西向きの大鳥居前には桟橋がつくられ、現在堤防となっている場所にはズラリと休憩所や遊技所・土産物屋が並んでいた。 海が失われて40年以上たつ現在でも、境内はサラサラとした砂が残り面影を残す。

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