愛知県碧南市 往昔「からかさ松」の岬として船頭の目印に 「権現岬」を訪ねる

大浜南部へようこそ!

権現崎の灯台

白亜の灯台と心地良い潮風を愉しむ 黄昏時には「甲斐丸」に心重ねて

白い灯台

<行く人来る人。衣ヶ浦に行き交う船を見送り出迎えた権現岬。風光明媚であった場所も衣浦港の造成、産業道路の敷設により今や激変。昭和51年に役目を終えた権現崎灯台が往時を偲ぶ> 権現崎と呼ばれた地に白亜の燈台がひとつ。衣浦港の整備に従い、新たな造成地が生まれて奥へと押しやられた権現岬。 かつてはこの権現岬こそが碧南市域の突端であった。その頃は人里離れた寂しい地であり、一本の老松と常夜燈、そして その常夜燈に明かりを灯す「甲斐丸」が住んでいた。この権現岬、明治の時代に石垣が築かれるまではさらに先へ延びて、長さ一キロ程の”州”が存在していたという。 長年の浸食と文化年間(1804~1818)の前浜新田開発に州の砂を利用した為、徐々に消えてしまった。 現在ある燈台は昭和29年(1954)3月に竣工し、その光は11マイル先まで到達した。昭和51年(1976)3月、衣浦港に新しい燈台が完成したことにより役目を終える。 12メートルの高さであった燈台は、周りを埋め立てられ、今は上部7.67メートルのみが露呈している。

常夜灯のあたま

<安政元年に起こった三河地震により倒壊した常夜燈、今は頭部だけが残る。里村紹巴が詠んだ句に当時の情景を想像する。心地良い潮風のなかで想い出となる一日を過ごしてみる> 権現崎燈台の東には「権現崎灯台緑地」という公園が整備され、休日には余暇を楽しむ家族連れなどが訪れる。 その一画に安政元年(1854)の三河地震で倒壊した常夜燈の頭頂部が保存されている。 この常夜燈は文政5年(1822)に船の夜間航行の安全を願って漁民達が建立したもの。 高さ14.7メートル、火袋1.2メートルという大きな常夜燈であった。 常夜燈の隣には自然石に「大浜権現に こき出納涼 せし折節 三熊野の 浦風 すゝし 秋の海」の句が刻まれる。 詠み人となる「里村紹巴」は、室町時代の連歌師で、”連歌中興の祖”といわれる人物である。 たとえ昔とは景色が一変しても、今も潮風は心地良く頬を撫でる。 遠い昔に訪れた里村紹巴の心情に自分を重ね、権現岬を心ゆくまで愉しんでみたい。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

甲斐丸(かいまる) 生没年不明。権現崎の常夜燈近くに住み、灯籠の灯り守をしていた。大浜浜家出身で渥美伊良湖の歌人「糟谷磯丸」に学ぶ。 和歌を嗜み、人々にも慕われたが、奇行が目立ち孤独を好んだ。そんな甲斐丸を村の人々は「一夜権現のとうろうの灯、誰が毎夜ともすやら」と揶揄した。 甲斐丸が詠んだ歌には「にくや権現のかさ松は、さなげさなげと手をのばす」が残る。これは猿投(豊田市)の猿が権現のからかさ松を見た様子を詠ったもの。 甲斐丸は仙人の術を修得すべく、この人気ない権現崎に住んだといわれる。ある日、からかさ松によじ登り、空中浮遊の術を試みるが失敗。以後、甲斐丸は姿を消し、その行方を知る人もいなくなった。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

まだまだ小さい三代目からかさ松

「からかさ松」

権現岬にいつの頃からか、一本の大きな松があり、傘を広げたような姿から「傘松(からかさまつ)」と呼ばれていた。 傘となる枝の両端が20メートルを超える程の大きさを誇り、衣ヶ浦へと入る船の目印となっていた。 傘松を囲むその美しい情景から、訪れた偉人も歌を詠み、歴史に残されている。 そんな傘松も昭和9年(1934)の室戸台風で枯れてしまう。戦後の昭和27年(1952)10月12日、 傘松を惜しんだ藤井達吉が光風会・知人と「傘松追憶の茶会」を開く。記念品には、傘松の根を掘り起こし作製した茶碗と権現岬の白砂を混ぜて焼いた茶碗が共に関係者に配られた。 のちに2代目となる傘松が植樹されるが、これも昭和34年(1959)の伊勢湾台風により枯れ、 現在ある傘松は3代目のものである。

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