愛知県碧南市 見返りを求めない善意は永遠に「橋の名」として残る「高与橋」

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高与橋 (たかよばし)

大浜町長「高松與吉」が私財を投じて完成させる 人々は決して忘れない

北から臨んだ高与橋

<第13代大浜町長「高松與吉」は人々のため、町のために私財を投じて決意する。見返りは何もない。橋の完成から約90年後の現在も高松與吉の名を冠した「高与橋」の存在が全てである> 碧南駅前の旭通りが南下し、堀川へと差し掛かる地点に一つの橋。 ざらついたコンクリート舗装、日に焼けて浅黒くなった欄干標柱にある青銅製の額には「たかよばし」の文字。 大浜北部と南部を隔てる堀川、架かる3つの橋のうちで実に味気なく、足早に人も車も過ぎてゆくばかり。 だが、ある史実を知れば、その心象も変わるのだろう。 大正3年(1914)に「大濱湊停車場」(現在の碧南駅)が出来、泥沼地であった一帯も大正通などが整備された。 しかし、大浜南部の錦町、塩浜町の住人が駅を利用するには、湊橋まで迂回せねばならなかった。 大正4年(1915)10月16日に、大浜町13代目の町長として就任した「高松與吉」は、苦労している人々の思いと町の発展を願い、私財を投じて橋を架設することを決意する。 大正7年(1918)に橋は完成し、同年3月11日に高松與吉は大浜町長を退任。 大正12年(1923)1月24日に高松與吉はこの世を去る。 高松與吉の善意に見返りはない。ただ、人々は感謝の意を込めて、この橋を「高与橋」と呼んだ。

元ボーリング場の工場

<旧字「浜道」はさらに昔、「女屋」という地名だった。どういう意味を持って名付けられたのか?今や工場となっている白亜の建物。そのどこか華美な雰囲気を漂わせる理由は、ブームの余波を受けて建設されたボーリング場であったゆえに> 高与橋を渡り、南下する道は一方通行路。この道、大正時代には「南旭通り」とも呼ばれていた。一帯は「浜道」という旧字名であり、さらに昔は「女屋」と呼ばれた土地であったらしい。 「女屋」とは、なんとも気になる地名。だが、大浜は港町として発達したにもかかわらず、”遊郭”の類は存在した史実はない。 色に溺れず、信仰心厚き大浜の気風をうかがえる事柄だ。 さて、その道を行かずに南を見て欲しい。白亜の建物。巨大な柱に支えられ、奥に塔らしきものが見える。まるでギリシアにある神殿のようだ。 中から聞こえてくるのは”ドゥー”と重低音。実は、現在は「日進工業・塩浜工場」となっているが、過去にボーリング場として竣功した建造物である。 しかし、ボーリングのブームも下降線を辿る頃に開業したため、営業したのは僅かの期間であったと聞く。 だが本当は、遊興施設であるボーリング場が大浜の気風に馴染まなかったのではないかと推測する。 連綿と続く大浜の気風、誇るべきか、誇らざるべきか。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

ピンク基調の堂内

「白い御堂にピンク色」

高与橋から岸辺の道を西へ向かうと見えてくる白亜の御堂。その白の眩しさは、どこかアドリア海沿いの漁村を思わせる。 中を覗けば、ピンクの世界。壇上にある向日葵柄の敷物に周りの壁がうっすらとピンク色に染まる。ほんの少しだけ微笑みをみせる立像のお地蔵様。 伏眼、スラリした鼻筋がそう見せるのか。眺めているこちらも口角が上がる。東の窓辺にお地蔵様と慕う人々の集合写真。写る表情は皆、笑顔をしている。 地蔵盆の記念写真だろうか? お地蔵様を巡る幸せな一日を想像させる。 この御堂の前は堀川の岸部であり、通り沿いに花壇が整備される。春から初夏へと移り行く季節、ここでは51株の牡丹の花が咲き、まさに「ぼたん道路」といった感。 遠くからこの牡丹を目当てにやって来る人々もいる。

< text • photo by heboto >


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