愛知県碧南市 懐かく温かい「庶民の暮らし」が心を和ませる 「錦町」を訪ねる

碧南市大浜南部へようこそ!

錦町(にしきまち)

錦町の一帯は「称名寺」に深く関わり 「風呂の下」なんて洒落た旧字名も

低い軒先が並ぶ

<「風呂の下」なんて怪しい地名が存在した錦町。一帯大部分は称名寺の敷地であった可能性が高い。創建当時に16の塔頭が存在したという称名寺。昔の姿を想像しつつ路地を歩く> 堀川の南岸にある「錦町」は大浜・称名寺に深く関係した地域である。昭和40年代後半の新町名制移行以前に存在した旧字名に「風呂の下」がある。 現在の錦町3丁目と4丁目の境あたりが相当する。地名の由来は、大昔に存在した称名寺の風呂の下にあたる土地だったからという。 偶然か、昭和の終わり頃まで「日の出湯」という銭湯が存在し、大浜まちかどサロンにある、大正末期に制作された「三河大浜鳥瞰図」(吉田初三郎・作)にも煙突の絵が描かれている。 ”風呂”という言葉に深く関わりあった当地において、その史実を表すものが消え去ってしまったことは残念である。 また錦町1丁目・2丁目も「別当」という旧字名で、称名寺に由来している。 裏鬼門に当たる説と別の建物が存在したという説がある。

町工場の間

<「塩浜町」の名は塩田の存在に由来。ガチャガチャと機械音の鳴り響いた町工場も今は昔。懐かしの路地に子供達の姿は消え、今や疎遠となった友の顔ばかりが浮かんでくる> 「浜道」または「南旭通り」とも呼ばれた一方通行の道によって錦町と隔てられた地域、「塩浜町」。 ”塩浜”とは明治43年(1910)まで塩田が存在したことによる。 西の錦町は古い家々が軒を重ね、下町情緒的な風情が溢れる地域だが、この塩浜町は町工場の多い地域となる。 だが、私の子供時代にあった”ガチャガチャ”と聞こえてくる機械の音は随分と少なくなった。 「鍵っ子」という言葉が消えて久しくなるが、私の子供時分は、ほとんどの家庭が共働き。 塾通い出来る程に裕福な家は少なく、子供達は路地で遊ぶ。家の近くだと夜勤のおじさんに怒られる、必然的に町工場の多い塩浜町へ子供達は流れた。 子供で解決出来ない問題が起こると、パートのおばちゃんが飛んで来たし、子供ながらも社会の矛盾を学ばせてくれた。 今の塩浜町を歩けば、ただ静かになった町工場の建物に出合う。 冷静に考えれば、大人になった今のほうがずっとみんな幸せなのに、この寂しい気持ちは何なんだろう。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

昔からあるザクロの木

「今も元気な錦町の大樹に昔の記憶甦る」

錦町3丁目に10メートルを超える大きな木がある。根本はブロック塀から斜めに突き出て、よく倒れもせずに自重を支えていられるものだと感心する。 もう20年程前になるだろうか、木の真下には幅1メートルほどの溝が存在した。 随分昔に造られたものらしく、コンクリートではなく石垣の組まれた構造で、今想像される溝(どぶ)のイメージとは少し違い、水質はさほど汚れていなかった。 台風がやって来ると、遠くにある畑の用水からの水が流れ込み、鮒や鯉が大量に紛れ込む。 タモ(玉網)ですくい上げれば、竹がしなる程にたくさんの魚が捕れた。また地震の時には溝が逆流するのを見た。 大樹の近くに地蔵堂がある。いつも白髪のお婆さんが番をしていた事を覚えている。 今そのお婆さんは亡くなり、お地蔵さんの横で遺影として参拝者を迎えてくれる。 懐かしい雰囲気のする地蔵堂でぜひ訪れてみて欲しい<※注意:錦町の大きな木は現在不明です>

< text • photo by heboto >


Copyright (c) 2002-2007 heboto All Rights Reserved
このページに関する御意見・ご感想は【サイト管理者へメール】までお願い致します。