愛知県碧南市 松江に人が住み始める以前に創建 「栄松山・專興寺」を訪ねる

碧南市新川西部地区へようこそ!

專興寺 (せんきょうじ)

慶長9年(1604)に念仏道場として松江に創建 毎春の聖徳太子会が有名

新しくされた專興寺の山門

<庄屋であった人物が慶長9年、松江新田に念仏道場をつくる。積浄を開基とし、宝暦11年に現在の「栄松山・專興寺」となる。聖徳太子像は伏見屋の市古家が明治初期に寄進したとされ、毎年春に法要が営まれる> 田尻交差点を東へ向かう。近辺には瓦等を製造する窒業の工場が立ち並ぶ。左手に白壁が見え、手前の小道へと進む。 木肌眩しい山門が出迎える。ここが慶長9年(1604)に創建された「栄松山・專興寺」である。 古くは松江新田と呼ばれた松江の地は、代官所が延宝2年(1674)に置かれて以降、本郷より移住して人々により発展。 新川地区の中でも初期に形成された集落だ。歴史ある松江だが、不思議と寺院は少ない。 ゆえに久沓・松江・田尻に住む人々の信仰を一身に集めてきた專興寺。 鉄筋の現本堂は昭和61年(1986)に再建されたもの。 專興寺の有名な聖徳太子像は、大浜の海岸に流れ着き、伏見屋の市古家が祀っていたものを明治初期に寄進されたという経歴を持つ。 毎年春には法要が営まれ、その柔和なお顔を拝むことが出来る。

逆光に浮かび上がる狛犬さん

<江戸末期に起こった專興寺の火災を教訓に遠州より檀家信徒によって勧請された秋葉神。美しい格子面を持つ社の壁と稲荷社の狛犬の滑稽な姿> 專興寺の墓地を抜けると秋葉社の境内へと辿り着く。この秋葉社は專興寺が江戸末期に火災に遭い、「2度と災難のないように」と寛保3年(1743)に遠州から秋葉神を勧請し、 明治の神仏分離令までは、專興寺の鎮守であった。もとは正徳元年(1711)に松江に移住した市古・杉浦一族が大国主命を氏神として祀った社が始まり。 のちに專興寺の秋葉社と合祀し、今日の姿となる。小さな神社だが境内には田尻区民館があり、寂しいといった感はない。 拝殿の側面、美しい格子の紋様に魅せられ縁づたいに歩けば、2つの小さな社の存在に気付く。 左に津島社、右に稲荷社。簡素な佇まいの津島社に比べ、稲荷社は釉薬瓦素材の狛犬と方々の地からやって来たお稲荷さん達が鎮座し賑やか。 ほんの少しだけ開いた稲荷社の扉が開いていた。本日は留守か?人々の願いを叶えるべく奔走するお稲荷さん、きっと御利益は確かだ。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

專興寺(せんきょうじ) 慶長9年(1604)11月18日、庄屋であった專興寺の御先祖が松江に念仏道場を開く。 宝暦11年(1761)に本山から「專興寺」の寺号を受ける。開基は「積浄」。一説にはこの年に火災に遭ったとされるが真相は不明。 聖徳太子像は明治初期に伏見の市古家から寄進されたもの。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

低く美しい白壁に素朴な松江寺の山門

「松江寺」

県道50号を北へ、「新川病院北」交差点を過ぎて100メートルほどいった先にある西へと向かう道。 その西松江の稲荷社へと続く道を行けば、右手に見えてくる白壁。 松江の地名をそのまま冠した「松江寺」は、文政年間(1818~1830)に創建され、浄土宗・鎮西派、開基を貞峰尼とする。 広がる松江の青空に映える白壁は、胸の高さしかなく、凛然とした境内を際立たせる働きを持つ。 門前にある墓地には、実に興味を惹く石仏群。3列6体、最後尾には阿弥陀様の配列は、どこか名勝負を重ねるチェスの趣。 さらに背後には座像のお地蔵様の笑顔。台座には宝暦10年(1760)の年号が刻まれ、松江寺創建以前のものと分かる。 訪れた人を喜ばす石仏群の演出は、仏と人との距離をグッと近づけてくれるよう。

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