愛知県碧南市 失われた海の代償「衣浦マンモスプール」由来と少年の夏思い出

マンモスプール最後の日

過去と未来

綺麗な海が灰色の工業地帯に 人々の悲しみと憂いは東洋一のプールへ

<臨海公園プール、通称「衣浦マンモスプール」誕生の史実を学ぶ。昭和40年(1965)から臨海工業用地の造成を行い、碧南市は工業都市へと変貌。4つあった海水浴場は埋め立てにより全て消失する。その代償として昭和49年(1974)の夏に造波機能を持つ巨大プールが開場した> 衣ヶ浦の海に面した碧南市は、かつて県内有数の海水浴場ある地として知られたいた。 大正3年(1914)開設の「新須磨海水浴場」を始めとして「玉津浦」「新浜寺」「新明石」と4つの海水浴場を有していた。 だが、昭和34年(1959)の「伊勢湾台風」被害による防潮堤建設と衣浦港整備による埋め立てが全ての海水浴場を消し去った。 海を知っている世代は往時の海を懐かしむも、あまりの無惨な光景に口を噤む。 工業都市へと変貌する碧南市、そして海を知らずに育つ子供達への代償として、衣浦港港湾計画のなかにひとつの計画が盛り込まれた。 衣浦東部臨海公園内に東洋一の造波プールを建設するという計画である。 昭和49年(1974)7月14日の日曜日に「マンモスプール」はオープンした。 造波プールは南北126メートル、東西45~74メートルという規模を誇り、一度に4千人、一日に1万人が泳ぐことが可能だった。4基の造波機からは高さ20センチから90センチの波を起こすことが出来、本物さながらの海水浴気分が味わえた。

<プールへの近道を小さな自転車が行く。子供達が喜び勇んで人道橋を通れば、夏の気配。もはや子供達の声を聞くこともなくなるこの道も、少年時代の良き思い出として残しておいて欲しい> 「大浜保育園」前を通る道が西へ向かい、堤防へと突き当たる場所に一つの人道橋がある。 大浜学区で少年時代を過ごした男子女子ならば、思い出深い橋であるはずだ。 元々は碧南駅を利用してくる人々の為の橋だが、プールへの近道なために地元の子供達もよく利用した。 「今日、プールいこまい」の掛け声とともに競争してこの橋を渡り、涼しげな並木のなかを行けば、「ああ、夏休み」と実感したもの。 マンモスプールを巡る懐かしい思い出話には、「コーラ早飲み大会」と「日焼けコンテスト」がある。 身体にかかわる危険性が今ほど問題視されなかった時代を感じさせる催しだ。 最初はすんなりと飲めるコーラだが、次第に炭酸が胃に溜まりゲップが始まると、手に持つコーラ瓶が震え出す。 そこで終わり、もう飲めない。今やこの類のイベントを開催する事は、責任転嫁と自己責任の曖昧な現代では難しくなった。でもあの頃が一番楽しかったのではないか。

ヘボト自画像ヘボトの「忘れないよ、あの夏の日々」

「碧南市臨海公園再整備基本計画」

碧南市は平成18年(2006)の「広報へきなん」6月1日号誌面にて「特集 臨海公園の未来予想図」と題し、マンモスプールの跡地に出来る公園の基本設計図を発表した。 平成18年(2006)度には、造波プール及び施設を取り壊し、完成は平成21年(2009)4月を予定という。 マンモスプールが閉場した翌年から、碧南市はワークショップ形式で広く市民から意見を募り、平成17年(2005)度には基本となる基本設計を終えていたようだ。 管理練前の広場だった場所には「シンボルマウンテンエリア」として高さ8メートルほどの山を築くという。 気になるのは「ヴィーナス裸像」の行方。碧南市を代表する彫刻家「加藤潮光」先生の制作で、新須磨海水浴場のシンボル的存在だったもの。 海を失っても、決して海を忘れない心の証として大切にして欲しい。「元気でいこう思いやりと文化のみなとまち碧南」を標榜するならば出来るはず。

< text • photo by heboto >


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