愛知県碧南市 称名寺の境内にあった頃 築山保育園の懐かしき園舎を偲ぶ

碧南の桜を見に行こう

いちご色の園舎

ストロベリーの思い出よ永遠に… ボクらは「あの日」をきっと忘れない

当時使われた園舎

<約50年前に建てられた赤い瓦の園舎。大浜下に住む庶民層の子供達は、この園舎で大切なものを学び巣立っていった。徳川家康の幼名「竹千代」に縁ある称名寺。境内にあった築山保育園があった時代。平成16年(2004)の春、私達のストロベリー色の思い出が1つ消えていった> 天文12年(1543)2月26日、「夢想の連歌会」が大浜の称名寺にて行われた。「神々のなかきうき世をまもるかな」の句に対して、松平広忠は「めくりはひろき園のちよ竹」と返す。 ここから徳川家康の幼名、「竹千代」が生まれた。徳川家ゆかりの古刹として名高い称名寺だが、決して傲ることなく広く大浜下地区の大衆を受け入れてきた。 昭和28年(1953)7月1日(水曜)に称名寺境内にて「市立築山保育園」が開園する。昭和51年(1976)3月で塩浜町に移ったが、開園当初からある「いちご色の園舎」は長く残ったままだった。 だが、平成16年(2004)の春、遂にいちご色の園舎が壊される。 園舎内部が露呈した時、木枠のガラス窓には、先生のつくった「ひよこの切り抜き」。 裕福な子は遠くの幼稚園、庶民の子は築山保育園という階級が存在した時代があった。 ゆえに築山保育園の園児達はあの小さな体に仄かな負けん気を持っていた。 遠い昔の園児達は今、社会で活躍している。その道程はかつて「竹千代」と呼ばれた男のように。

壁に描かれた花の絵

<園児達の声が消え去って30年近くの時が過ぎ、風雨に晒されながらも、ずっと私を待っていてくれた。ストロベリー色の壁に描かれた黄色い花。たった数年だけれども、楽しかった日々の思い出が蘇る。もう二度と姿を見せることのない黄色い花は、最後に大切なものを教えてくれた> 子供の頃には毎日のように遊んだ友達も、時と共に疎遠になっていく。だけど、あの頃の日々を鮮明に覚えているのはなぜだろう。 まちなかで顔を合わせても二言三言、社交辞令を交わすだけで、どこかぎこちなくすれ違っていく。 ストロベリー色の壁に描かれた黄色い花。園児達の声が聞かれなくなってもう30年近くになる。 風雨に晒されながらも、ずっと色・形を保ち続けてきた黄色い花。 園舎入り口の壁に描かれた黄色い花は、たくさんの園児を出迎え、見送り続けてきた。 「行きたくない」と駄々をこねていた私を優しく出迎えてくれた先生。 迎えが来るのをずっと園舎入り口で待ち続けたあの日。私が一生懸命に生きた日々には、この黄色い花があった。 何十年ぶりに見た黄色い花、でももうその姿を見ることは出来ない。 あの頃に遊んだ友達となんだかとても話したくなった。

ヘボト自画像ヘボトの「胡馬北風(こばほくふう)」

鉛散弾規制地域の看板

「玉津浦グランドの湧水」

衣浦海底トンネルから東へ走る国道247号線が「築山町」交差点へ差し掛かる手前に「玉津浦グランド」がある。 今でこそ立派に野球グランドとして整備され、休日には賑やかな声の聞こえる玉津浦グランド。 北の隣接地には十分なキャパシティを持つ駐車場も完備され、その東には滑り台やジャングルジムのある公園も用意される。 その駐車場と公園の間に数本の元気なさげな木々がある。根本には溝の痕跡らしきもの。 もう何年になるだろうか、かつてこの溝には水が存在し、生き物が棲んでいた。 玉津浦グランドを含め、一帯は海を埋め立て人工的に造られた土地である。 なのに木々の根元には池が出来、池底からの湧水が底に砂の波紋を作りだしていた。 そのため、水はいつも透き通っていて、容易にザリガニや鮒を捕まえることができたのである。 水深は浅く安心して子供が自然を楽しめる場所だったのに、いつしか姿を消してしまった。 ただ、タンポポとシロツメグサだけが昔と変わらず咲いている。

< text • photo by heboto >


Copyright (c) 2002-2007 heboto All Rights Reserved
このページに関する御意見・ご感想は【サイト管理者へメール】までお願い致します。