方巌和尚(八橋売茶翁)

江戸時代の後期に、旧跡八橋(無量寿寺並びに在原寺)を蘇らせた人
                                              

 煎茶の歴史上では、「売茶翁」と名乗る人物は4人見つけることが出来ます。しかし、三河で「売茶翁」といえば、知立市八橋町にある無量寿寺の住職であった八橋売茶翁(笠原方巌、方巌売茶ともいう)のことを指します。この八橋売茶翁を祖とする煎茶の流派も愛知県内では、盛んに活動しています。八橋売茶翁とは、どんな人物であったでしょうか。

○ 誕生

 八橋売茶翁は、宝暦9年(1759)、福岡藩士の三男として生れました。しかし、無量寿寺に残された過去帖によれば、その生活は、幸福とはいい難いものだったようです。18歳までに両親と6人の兄弟姉妹すべてを失い、長崎にある黄檗宗の崇福寺に入ったともいわれています。

○ 煎茶との出会い

 天明6年(1786)、京都に行き妙心寺(臨済宗)で修行をはじめます。しかし、修行中にある人物を知り、その生き方に魅せられてしまいます。その人物こそが高遊外(初代売茶翁)です。
 高遊外は宝暦13年(1763)、八橋売茶翁が5歳のとき亡くなっていましたが、彼の詩集「売茶翁偈語」や伝記は、すでに出版されていました。このような書籍によって高遊外を知ったのでしょう。一説には、高遊外の伝記を書いた相国寺の大典禅師に、煎茶についての教えを受けたともいわれています。

○ 売茶翁となる

 寛政末頃(1795〜1800)、江戸の寛永寺に近い梅谷に移り住み、煎茶を売る活動を始めます。高遊外と同じ京都ではなく、江戸で行ったことで物珍しさもあり、注目を集めたようです。、しかし、文化2年(1805)春、47歳のとき、茶道具一式を納めた笈を背負って江戸を発ち、東海道を西に向かいました。

○ 八橋へ

 この旅の目的が何であったのかは、わかっていません。八橋売茶翁の雑記帳「独健帳」には、旅の途中で出会った人々の名や旅の句などが数多く記されています。道々での土地の文化人や有力者たちと交流し、茶を売りながらの旅で、緊急のものではなかったようです。そして八月終わりの頃、杜若で名高い名勝八橋に到着します。

 この頃「伊勢物語」などで知られた八橋は、見る影もなく荒れていました。この様子に心を痛めた八橋売茶翁は、地元の庄屋と相談し、まずは無住職の在原寺の再興に取り組みます。文化6年(1809)、見事に在原寺の再興をしました。そして、引き続き村人に頼まれ無量寿寺も再建(1812年)した。このとき、杜若を移植し煎茶式の庭園も造りました。そしてそのまま嘱望され無量寿寺の住職となった。


方巌和尚の肖像画

 方巌和尚は文化人や有力者たちと深く交流していたようです。彼の「独健帳」には、明治用水計画で知られる都築弥厚の弟曲江や岡崎出身の俳人鶴田卓池、刈谷出身の俳人中島秋挙の名が記載されています。また、寺の再興に当たっては、「八橋山杜若講中」を立ち上げ、積極的に募金活動に乗り出した。刈谷藩御用商人和泉屋太田平右衛門、鳴海の財閥下郷家(尾張藩御用商人)を訪ねるなど、有力者たちに募金をお願いした。

 紀州藩主徳川治宝侯との交流もよく知られています。      
  ≪ 徳川治宝侯より御拝領の書 ≫
右の書は徳川治宝候御拝領の書で、無量寿寺境内にある「八橋史跡保存館」に保管されています(かきつばた祭り期間中は、入場料150円で一般公開されています)。また、八橋町内及び三河地方には方巌和尚の直筆の書をもっている家が多くあります。5月の第2日曜日、八橋町のお祭りですが、この時に揚げられる幟旗も方巌和尚の書です。
















徳川治宝侯より御拝領の書
(八橋史跡保存館に展示されている)

○ なぜ「通仙」か

 方巌の憧れの人、高遊外が京都で開いた茶店の名が「通仙亭」であった。この通仙とはどこからとられたのだろうか。中国の唐代の文人、盧こう(?〜835)が、孟簡から新茶を送られた際に感激して詠んだ詩「筆を走らせ孟諌議の新茶を記するを謝す」      

 一椀 口吻潤い  一杯飲むと喉が潤い、
 二椀 弧悶を破る  二杯で一人思い悩むことがなくなり、
 三椀 枯腸を捜るに、唯文字五千巻有るのみ  三杯目でそれまでなんの詩想も湧かなかった胸中に五千巻もの文字で一杯になった。
 四椀 軽汗発し、平生不平の事、尽く毛孔に向かって散ず  四杯目で軽く汗が出て、常日頃不満に思っていた事が、すべて毛穴から去っていった。
 五椀 肌骨清く  五杯目で身体のすべてに清清しいさわやかさを感じ、
 六椀 仙霊に通ず  六杯目を飲むと神仙の世界に達したようだ。
 七椀 喫するを得ず、唯覚ゆ両脇に習習として清風の生ずるを  七杯目はもう飲むことができず、羽が生えて空を飛んでいるようで、ただ両脇に清風が吹き抜けていくのを感じるばかりである。

※上記の詩は、煎茶を意図して詠まれたものではないが、日本の文人茶の精神を象徴するものとして、特に好まれた。高遊外の「通仙亭」も
この詩の「六椀仙霊に通ず」からとられたものである。また、煎茶の祖といわれる石川丈山の詩にも、この詩に触れたものが多数見られる。

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