無量寿寺のご案内            

無量寿寺本堂 心字池(煎茶式庭園)
日吉山王社 祖風翁の句碑
芭蕉句碑 10 杜若姫供養塔
八橋古碑(亀甲碑) 11 方巌和尚の墓
鶴田卓池の句碑 12 八橋の名の由来
ひともとすすき 13 八橋旧蹟の碑
業 平 竹 14 在原業平像と歌碑

 

     1  無量寿寺



阿保親王像

 聖観音菩薩

在原業平像

伊都内親王像
現在は臨済宗妙心寺派に属していますが、寺伝によりますと、文武天皇、慶雲元年(704)の創立で、東海山慶雲寺といっていた。現在の豊田市駒場町(八橋町の西隣の町)下馬の一帯にあったと伝えられている。そこらあたりは慶雲寺廃寺跡といわれ、古い瓦や瓦を焼いた窯跡も発見されている。白鳳時代末から奈良・平安時代初めにかけての寺であったといわれている。
 弘仁12年(821)に駒場からここ八橋に移され東海山無量寺と改められた、ついで延喜2年(902)に八橋山無量寿寺と改称された。
 創立当時は台密の二宗を兼学(真言宗・天台宗)であったが、後に真言宗の学頭となり、栄えていたと伝えられている。 室町時代の初めの延文5年(1360)慧玄禅師住し、次いで文安5年(1448)禅源大済禅師により復興されました。その後、宝永8年(1711)に臨済宗妙心寺派になりました。
 その後、文化9年(1812)に村民の願いにより、在原寺を再興した
方巌和尚を迎えた。方巌和尚の活躍で寺運を挽回し、現在ある煎茶式庭園も方巌和尚の力によるものである。
 本堂にはご本尊として高さ1mの聖観世音菩薩像(木造)、本尊の右側に高さ112cmの
業平公の立像、その右側に弘法大使の坐像が安置されている。本尊の左側には、業平公の父である阿保親王あぼしんのう(平城天皇の皇子)像と母である伊都内親王いとないしんのう(桓武天皇の第八皇女)像などが安置されている。 伊都内親王の読み方にいずないしんのうという説もある。

 「伊勢物語」の第九段、東下りで、在原業平がこの地を訪れて、あの有名な「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」の歌をよんでいる。さらに、業平は当時既に宿場であったここ八橋でしばしとどまり旅の疲れを癒したものと思われる。無量寿寺のご本尊「聖観世音菩薩像」は、業平作と言い伝えられておる。また、都から業平を追いかけてきた「かきつばた姫」との悲しい物語も残っている。


 

在原業平ゆかりの寺
無 量 寿 寺 名勝の地八橋の中心にあり、業平像と両親の像が祀られている。
在  原  寺 八橋の鎌倉街道沿いにあり、業平塚(分骨を埋めた塚)を守る人の御堂。業平立像がある。
→「鎌倉街道のご案内」の在原寺を参照ください。
宝  珠  寺 東海市にあり、業平の位牌と坐像、寺からすこし離れたところに業平塚がある。
不  退  寺 奈良市にあり、業平自作の観世音像と阿保親王の木像がある。阿保親王の菩提を弔った寺。
十  輪  寺 京都市西京区にあり、通称業平寺と呼ばれている。業平の墓と業平が煙をたなびかせたという塩竃の跡がある。
在原神社(在原寺) 天理市にあり、明治初年に廃寺となり、現在は在原神社。阿保親王と業平を祀る祠がある。




かきつばた祭りと業平公毎歳忌


 毎年4月27日~5月26日までの1月間、無量寿寺境内では、かきつばた祭りが開催されます。

 そして、5月26日直前の日曜日に在原業平公の毎歳忌が盛大に執り行われます。(※実際の業平公の命日は西暦880年5月28日です)

 左の写真は、その様子を撮影したものです。




       2 日吉山王社


 合祀殿。その昔、八橋村のあちこちに祀られていた。小さな祠が明治のはじめの頃、日吉神社の境内に集められ、合祀殿に祀られた。  創立は慶雲元年(704)、御祭神は比叡山の麓近江坂本にある日吉大社と同じ大山咋尊(オオヤマクイノミコト)、無量寿寺の開祖、密園法師が寺創建に際し、守護神として境内に勧請安置されたと言われている。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕してきた。社務所の右にある合祀社の左の旗立ての石の支柱に「慶應3年(1867)八橋山朴仙」とある。( ※朴仙と言う名は、無量寿寺第八世和尚の名である。)
 明治元年(1868)神仏分離令により境内に境界を設け町内の氏子が氏神としてお祀りしてきて、現在に至る。
 代々、全住民輪番で毎夜御灯明を灯し続けている。本来の例祭日は、近江坂本の日吉大社と大祭と同日の10月14日であったが、このごろでは、かきつばた祭りに合わせて5月15日により近い日曜日(5月の第2又は第3日曜日)としている。また、祭りの幟旗は、近郷近在では最も大きく、方巌和尚の直筆である。
 本殿向かって左側の狛犬の前足の下は子である。これは狛犬の母親が子をあやしているところと云われている。また右側の狛犬は父親であり、多くの場合、まりに足を乗せているのだがここでは、普通の形のままである。
 そして、右(東)側の父親像は口を開けた「あ」形像であり、左(西)側の母親は口を閉じた「ん」形像である。
 

 

 


3 芭蕉連句碑(市指定文化財)
















 かきつばた 我に発句の おもいあり   芭蕉

 
       麦穂なみよる  潤いの里   知足

芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え,翌年の4月上旬木曽路を経て帰庵の途中、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵(はいえん)を開いたときの作といわれている。

 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけっていたのであろうか。

 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河に残る芭蕉句碑の代表的なものとされている。(知立市教育委員会)

 芭蕉の句碑としては、知立市内には他に下記の句碑がある。

 無量寿寺から約500mぐらいのところある明治用水緑道沿いに
       
        「 杜若 語るも 旅のひとつかな 」  の句碑がある。
  これは、大阪の保川一笑宅に寄ったとき、その庭に咲く杜若を見て詠んだ句と言われている。
 
 また、知立神社境内には、杜若を詠んだ句ではないが、池鯉鮒宿の繁栄振り詠んだ句
       
                 
「 不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市 」 がある。
 


4 八橋古碑(亀甲碑)(市指定文化財)



 史蹟名勝の地として知られたここ三河八橋は古くから文人墨客の訪れる事が多かった。  この碑文は
荻生徂徠門下の秋本嵎夷が岡崎侯に招かれて儒官を勤めていた時、
                   
ならびに
 偶々この地を訪れ、「八橋記事 弄 王孫歌」と題して「八橋と業平の故事」についてまとめた ものである。 書は門人の
国分興伯機で、同門人の由良不淰により寛保2年(1742)に建立 された。
 亀の上に三五七の漢字を刻んだ碑柱が建ち一般に亀甲碑と呼ばれている。(知立市教育委 員会)

 [ 左の写真の碑文を正しく意訳できれば亀が動きだすとの伝説がある。]


 ※1 秋本嵎夷・・・・・元文3年(1738)、51歳のとき、岡崎藩主水野忠辰に招かれ、藩の儒官 として岡崎に来た。宝暦元年(1751)、64歳で没するまでの13年間、藩主に進講するかたわら、藩士や有 力商人の子弟にも漢学や詩文を教授した。
 ※2 
国分伯機・・・岡崎伝馬町の御用商人(塩問屋)。学問好きな伯機は嵎夷に師事し、子弟の交わりを深めた。寛保3年(1743)、岡崎文学のサロンとでもいうべき別邸を建て、嵎夷から「市隠亭という名をいただいた。

 




5 鶴田卓池の句碑

弘化3年(1846年)門人山本某が建立

無量寿寺のお庫裏の入り口右側の庭園のなかに写真左の句碑がある。
 「 鳩の鳴く 樹ははるかなり 杜若 」

 
鶴田卓池(1768~1846年)は、江戸時代の文化から天保期にかけて活躍した俳人(三河の蕉風継承者)。卓池の名声は三河にだけとどまるものではなかった。例えば、70歳の古希の祝いに刊行された「竹春集」には四十二か国から祝句が寄せられていることからも分かる。卓池は明和5年(1768)に岡崎で生まれ、通称鶴田与右衛門と呼ばれていた。本名は光貞で、清々処とか藍叟というのは俳号である。
 祖先は、美濃の鶴田山の麓に住み、土岐氏に仕えた武士で、一族の中には三河一向一揆に出陣し、首級を挙げたほどの者もいたという。卓池の幼少のころのことは残念ながら分かっていない。・・・・・・(岡崎の人物史より抜粋)

[平成22年8月24日付け「中日新聞」に卓池関する次のような記事があった]
 卓池は、岡崎城下で紺屋を営む傍ら、20代から松尾芭蕉に倣って東北を訪れるなどして句を詠んだ。また、還暦を前にして、西日本を旅した紀行文「西遊日記」を残した。この中に、長崎の出島の様子などが事細かに記されていた。出島の内部をここまで記録した資料は、数少ないとのこと。






6  ひともとすすき

 
 謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられている。


   八橋の一もとすすき穂にいでて

          はるばる来ぬる人まねくらん

 と「三河名勝図絵」にはあります。
 
 このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われて
 いる。
 
 ※ 「伊勢物語」に係わる能・謡曲
     「井筒」  「杜若」   「小塩」

 「伊勢物語」第二十三段の歌
  
   男から女へ   
筒井つの井筒にかけしまろがたけ  過ぎにしけらしな妹見ざるまに
   
    女から男へ   
くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ    君ならずして誰かあぐべき

             ※「筒井筒の・・・」を「筒井つの・・・」と表記している書物もある。


7  業 平 竹


業平の住んだと伝えられる大和国石上在原寺(明治政府の神仏分離令で廃寺となり、現在は在原神社となっている)に業平竹・ひとむらすすき・筒井筒などの伝説があり、この八橋にも業平の関係により昔から植えられている。
 また、夫婦竹と称え縁結びの竹とし俗に信仰される。(和州旧蹟考)


8 杜若 池(心字池) (市指定文化財「名勝杜若池」

この庭園は、寺の再興者であった方巌売茶和尚が、文政年間(1818-1829)に、以前よりここにあった池や庭を茶庭風に改造したものと思われる。
  庫裏前の杜若池を中心とし、一の段から四の段まで生垣で区切られ、人の影を見ることなく杜若を眺めながら回れる回遊式の庭園となっている。また正面遠景には岡崎の村積山、近景には逢妻川の清流を借景として取り入れている。生垣には、赤目樫、山茶花が植えられ美しく刈り込まれている。毎年5月に約3万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わう。(知立市教育委員会)
 ※1 その昔は、きっと村積山まで原野が続き本当に美しい景色が見られたものと思われる。現在では、途中に民家やら工場などができ、また大氣の汚れやらでその美しさが見られないのが残念である。
 ※2 村積山は、標高262mで古来から三河富士とも花園山とも呼ばれている。頂上の村積神社は真福寺の奥の院として村積大明神が祭られ安産の神として信仰されている(岡崎観光文化百選)遊歩道が整備されていて山麓の駐車場から30分位で頂上まで登ることができる。 

         煎茶式庭園


        借景村積山(三河富士)

                          

                              井戸                                       辻灯篭一対

   

                         はるとみ
文政5年(1822)春、第10代紀州藩主徳川治宝候は、参勤交代でのお国入りの4月7日、八橋無量寿寺を尋ねた。方巌和尚を謁見しその人格が気に入り、是非紀州にも遊びに来なさいと約束し、帰国の途についた。
 この年10月、63才の方巌和尚は紀州に行き、城内の天年山に居を与えられ、御召の際には、禅問答、詩歌の交換、書の揮豪をして気にいられる。また内室のお相手をしたり、藩主代々の霊に回向したりした。翌年正月帰途の折には、候より自筆の「通遷閣」の大書、中国の書にて「点茶」などの贈り物や後日に送られてきた辻灯篭1対を頂いた。また「旧蹟八橋を大切にせよ」とのお言葉をがあり、帰寺して心字池に水を入れるために井戸を掘ろうとしたが病気になり、その志を果たせず、後に八世朴仙和尚の代になり嘉永2年(1849)に完成した。
 ※「通遷閣」「点茶」の書は境内の『八橋史跡保存館』でみることができる。(入場料大人一人150円)

9  祖風翁の句碑


かきつばた 夏も
              

   むかしの  なつならず
 井村祖風は、延享元年(1744)、江戸に生まれ、蕉風の俳諧を学び、文人との交流もあった。岡崎城の本多忠寛と親交があり、その縁で池鯉鮒宿の旅館山吹屋と知り合い、その跡を継いだ。芭蕉を慕い、その家業のかたわら俳諧の道に励んだ。自ら蕉門八世と名乗り、よく門人に蕉風を伝え、三河地方の指導的人物であった。

 碑は文化8年(1811)、弟子たちにより建てられたもので、経巻型式に造られたものは珍しい。(知立市教育委員会)

 ※「伊勢物語」第4段のなかに在原業平作の歌
     
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
        わが身ひとつは もとの身にして

があるが、祖風さんはこの歌を意識していたのだろうか。よく似てはいるが、全く別の歌なのだろうか。どなたか教えてください。


10  杜若姫供養塔(市指定文化財)

 花崗岩で作られた宝篋印塔で、全高は約1m。全体に風化が著しいが、基壇は矢作川流域に見られる蓮花を省略した形式のものである。笠は5段であるが、4隅の耳を欠き相輪も途中で折れており、塔身の4仏の梵字もはっきりしない。
 杜若姫は、小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕って、やっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げて果てたと伝えられている。 この塔は、姫を哀れみ、後の世に供養して建てたものと思われる。(知立市教育委員会)

 ※東海市にも八橋の杜若姫の話によく似た話があるそうです。右写真の像は宝珠寺にある業平像で、東海市の場合は、あやめ姫と言うのだそうです。また、宝珠寺の近くには、業平塚もあるそうです。





11 方巌和尚の墓

 無量寿寺本堂裏に歴代和尚のお墓がある。その左から2番目が方巌和尚の墓である。墓石の台に翁の遺偈(死の直前に残されたことば)が刻んである。
 

     『 山中春静梵王家  木版声終解結跏  
      七十年間総若夢  今朝落盡昨朝花 』

 無量寿寺のある山中の春は、静かなものです。木版の声も聞こえなくなり、座禅も解きます。この70年間の私の人生総てが夢のようです。昨日まで咲いていた花が、今朝になって散り落ちるようなものです。

12 伝説羽田玄喜二児の墓
   (八橋の名の由来)

 むかし、まだ八橋が野路の宿と呼ばれていたころ、羽田玄喜という医者が住んでいた。妻はこの地の庄司の娘で二人の男児があり幸せに暮らしていた。しかし、早くに夫と死別し女で一つで二児を育てねばならなくなった。妻は、生計の資を得る為に入江裏で昆布などをとっていた。(そのむかしは、逢妻川の河口はここ八橋のすぐ近くで海の潮の満ち干きに大きな影響を受けていた。)二児は母を訪ねて行き、誤って深みにはまり命を落としてしまった。母は悲しみのあまり尼となり、子の菩提を弔うために、この寺に墓を建てて観音様に祈りを捧げていた。ある日、観音様が枕元に立たれて「明日の朝、上流から材木がたくさん流れ着くから、村人と力をあわせ橋を架けなさい」と告げられた。
 母である尼は、お告げに従い村人たちと力を合わせて、深みを選んでは橋を架けた。向こう岸から、こちらまで完成してみたら、丁度8箇所に橋が架けられていた。以後、この村を「八橋」と呼ぶようになった。 なお、二児の母親の墓は、何故かここから約500mほど離れた在原寺の庭園にある。







13 八橋旧蹟の碑

(京都銘菓「八つ橋」と無量寿寺)


  かきつばた園と書かかれた角ばったアーチをくぐるとすぐ右側に写真のような碑が建っている。この碑の裏側には「西尾為治」と刻まれている。この西尾為治という人は、京都で最初にお菓子の「八つ橋」を造ったとされているお店(本家西尾)の歴代の当主の名である。

 大正2年の無量寿寺本堂が火災で焼失した際に当時、住職と親交のあった本家西尾さんが本堂再建のとき本堂の須弥壇とこの旧蹟の碑を寄贈くださったとのことである。
 左の写真は、本堂の須弥壇脇に書かれた文章である。
 京都の銘菓「八つ橋」の老舗本家西尾さんの宣伝パンフによれば、「銘菓八つ橋」は、1689年(元禄2年)ここ三河八橋の八橋の橋の形に似せた米の粉のせんべい菓子を作り八つ橋と名付けたと記されている。その後、強度を保つために現在のような丸みをおびたお菓子になったという。
 ちなみに同じく1689年(元禄2年)に創業した「聖護院八つ橋」さんは、琴の名手八橋検校さんのお琴の形をした、やはり米の粉を使ったお菓子を考案したとある。
 どちらにしても、その包み紙に「かきつばた」が描かれていることからしても、その菓子の名は、在原業平で名高いここ三河八橋の八橋という地名に由来しているのではないのだろうか。



14 在原業平像と歌碑

 825年(天長2年)淳和天皇の御世に誕生。父は第51代平城天皇の王子である阿保親王、母は第50代桓武天皇の皇女、伊都内親王。
 826年(天長3年)兄行平等と共に臣籍降下し在原姓を賜る。在原氏の五男で右近衛権中将であったため、「在五中将」と別称されていた。
 『伊勢物語』は業平を主人公とした一代記であると言われている。その第9段いわゆる東下りの途中ここ八橋でかの有名な「からころも きつつなれれにし つましあれば、はるばるきぬる たびをしぞおもう」の歌を詠んだ。
 業平は和歌に長じ、平安の六歌仙のひとりとも言われている。百人一首には「ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは」の歌がある。
 右の写真の立像と歌碑は、知立市民並びに平成20・21年に来園した皆様方のご寄付で建立し、平成21年12月6日に除幕した。
 この立像は、東下りをしたころの年齢(34~37才)で、狩衣姿でここ八橋でカキツバタの花を見て、どんな歌を詠もうかと思索中の姿であると聞いている。



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