愛知県碧南市 近藤坦平の学んだ西洋医学は人々を救い「洋々医館」の存在

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洋々医館 (ようよういかん)

愛知県内に轟いた名声も今は姿形さえなく 公園の石碑のみとは残念

公園内の石碑

<明治5年(1872)、従来の東洋的な医学とは決別し、西洋の科学に基づいた診療を目指した近藤坦平は、鷲塚の地で「洋々堂」を開業した。愛知県内外から患者が集まる程に評判を得たが、昭和55年10月に廃業した> 川端蓮成寺西の交差路を南へ行くと左手に公園が見えてくる。その一画に「洋々医館跡」と刻まれた碑がある。 「洋々医館」とは明治初期に、鷲塚の近藤坦平が長崎で学んだ最新の西洋医学で治療を行う目的で開設した診療所である。 ただ診療するだけでなく、蜜蜂義塾という医学校を創設し、多くの医療従事者を後に輩出した。 洋々医館の名声は広く愛知県内に広まり、遠くから診療・就学に訪れる者があとを絶たなかった。 しかし、昭和55年(1980)には後継者が絶え、112年の歴史を閉じた。

雨戸に御宿の文字

<遠くから診察を受けに来る人のための旅館が2軒あった。「洋々医館」の全てがなくなった現在、かつて旅館を営んでいた建物の雨戸に残る「御宿」の文字だけが往時の賑わいを物語る> 鷲塚周辺だけでなく、県内から多くの患者が訪れた「洋々医館」。日帰りで帰れない患者のために、近くには2軒の旅館が営業していた。 他にも飲食店などの店舗が並び、洋々医館は鷲塚の経済の一端を担っていた。洋々医館の廃業とともに往時の賑わいも消えていく。 今、当時を物語るものと言えば、川端蓮成寺前にある旅館だった建物の雨戸に「御宿」と文字が残されているだけである。 洋々医館に関係する建物は全て移築、または撤去されてしまった。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

玉葱が軒先にぶら下がる

「軒先にぶら下がるタマネギを見て思う」

鷲塚には、まだ懐かしの光景を目にする事が出来る。軒先にぶら下がる「タマネギ」である。 20年ぐらい前までは農家の数も多く、また家庭で食料を備蓄する習慣もあったため、 タマネギだけではなく、大根、柿などが軒先にぶら下がる光景は珍しくはなかった。 家ではお婆ちゃんが白菜を漬けたり、梅干し、梅酒などを作って子供を喜ばせていた。 近年、農業の効率化や身近にコンビニ・スーパーが出来た理由により、食糧備蓄・自家製食品製造の必要性は希薄となる。 よって各家庭固有の「味」は均一化され、より深く大量消費の渦に巻き込まれて行く。大量消費と食糧危機は表裏の関係である。だから…

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