愛知県碧南市 天王の名の由来となった牛頭天王尊像 天王「津島社」を訪ねる

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天王津島社 (てんのうつしましゃ)

天王は鎮座する「牛頭天王尊像」に由来 存在した極楽寺と集落移動の謎

津島社の拝殿

<天王の名は、この津島社の御神体「牛頭天王尊像」に由来する。拝殿屋根の神紋を仰ぎ見れば、織田家の家紋。初陣で天王を攻めた織田信長との因縁を感じさせる。近年の天王の発展は目覚ましく、地価の高騰・餅投げ景品が好調さを表している> 大浜街道沿い、大浜上の熊野神社大鳥居の向かい、『奥谷米穀店』『魚いく商店』の東にある「天王津島社」(天王町7)。 巨大な金比羅山の常夜燈を右手に津島社の境内へと入る。この津島社の由来は 拝殿の屋根にある神紋に目が留まる。何処かで見た事のある紋…これは「織田木瓜」と呼ばれる織田信長の家紋ではないか。 100騎に迫る軍勢を率いた織田信長は天王・極楽寺を攻めるが、大浜の長田重元の待ち伏せに遭い敗走する。 これが織田信長と天王の因縁。近年の天王は勢いがあり、碧南市内の地価ランキングは上位を占め、2004年の津島社秋祭り・餅投げの景品には、なんと軽自動車1台という大盤振る舞いであった。

ネギ畑広がる

<天文16年(1547)10月、織田信長は大浜の極楽寺を攻める。この時、戦死した武士の亡霊が彷徨う話は、後の「十三塚」という伝承となる。明治39年(1906)まで天王には旧字「極楽寺」が残っていた。天王の集落全体が移動した理由は何だったのか?> 織田信長は14歳にして天王(当時大浜の枝郷)の極楽寺を攻めた。この時の戦死者は亡霊となり、「十三塚」という民話になる。 明治39年(1906)までは、天王に旧字「極楽寺」が存在していたが、この極楽寺の歴史・由緒に関する資料は一切残っていない。 旧字・極楽寺であった場所(大浜上町4丁目)は現在、宅地・畑となっている。当初、天王はこの極楽寺を中心に栄えていたという。 だが、何故か天王の集落は北へ移動した。一説には極楽寺ではなく、現在の松本町に天王の集落があったと言う話もある。古窯が存在した旧字「村神」との関連も。いずれにせよ実に不可解な謎である。「明暦2年(1656)に大浜本郷から天王へ28軒が移住した」 との史実が残されている。集落移動と大量移住は何か関係があるのかも知れない。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

団子売り切れの告知板

「天王のだんご屋」

大浜街道沿いに、突如、路上駐車する車の列が出来上がる。軒先には”だんご”を模した木製のオブジェ。 人々の目線の先には、ショーケース内に陳列された”みたらし、あんこ”の存在。 大正末期に創業した歴史を持つ「天王のだんご屋」には、我先にと団子を求める人々が殺到する。 無事に買い求めた人には安堵の表情、並ぶ列の人々は刻々と減っていく団子に心配顔。 休日には、早々と売り切れ、「だんごは売り切れました。又のお越しをお待ちしております」の黒板が掲げられる。 「天王のだんご屋」のみたらしは、甘さを抑えた大人の味。碧南で生まれ育った人なら、一度は口にしたことがある程、有名な「天王のだんご屋」のみたらし。 天王のまちを訪れたのなら、ぜひご賞味あれ。

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