愛知県碧南市 「信ずるは力なり」の言葉を胸に 清澤満之ゆかりの「西方寺」

碧南市大浜北部へようこそ!

西方寺 (さいほうじ)

宗教哲学者「清澤満之」終焉の地として有名 本堂の縁側にて人恋しく

松の下、本堂への道

<勇猛な姿を見せる太鼓堂は大浜・西方寺の格を伝える。清澤満之先生の碑に一礼をし、弥陀の松がつくる傘の下を歩く。大浜きっての名刹、西方寺の荘厳な雰囲気が伝える緊張感に汗> 湊橋からくる大浜街道の通り、文久3年(1863)に建立されたという太鼓堂の勇ましい姿が見えてくる。 日本初の宗教哲学者「清澤満之」終焉の地であり、大浜を代表する名刹である「法応山・西方寺」を訪れる。元は棚尾の地、八柱神社の境内近くにあったといわれ、明応5年(1496)の時代に大浜へやって来た歴史がある。 彫り深い鱗を持つ龍が睨む山門を行けば、樹齢400年とされる「弥陀の松」がつくりだした笠の下を通る。 本堂前面を支える6本の柱、14の唐戸が醸し出す雰囲気は、古い西洋神殿にも通じる雰囲気。 名刹であるが故に張りつめた空気漂う西方寺。 ぎこちなくも、いつもより丁寧に動いている自分に気づく。

本堂の南側、白壁の小道

<もっとも大浜らしい情景が臨める場所は西方寺にあり。重なる黒瓦、白壁の蔵が情緒を誘う。西方寺本堂、南の縁は爽やかな風舞う特等席。素晴らしき景色になぜか人恋しくなってくる> 大浜の風はこんなにも優しい。忙しなく生きる現代人において、風が優しいなんて思う事があるだろうか。 今、私は西方寺本堂の縁で南を向いて座っている。眼前に広がる素晴らしい景色を愉しんでいる。 斑模様の瓦屋根が重なり、長年の風雪が創りあげた蔵の味わい、真下には平行して並ぶ白壁の屋根の走り。 遙か向こうには稲荷社の大きな銀杏が見せる緑。これぞ忘れてしまった大浜の姿。なにより心地良いのは、ほんのり潮の香りする優しい風。 こんな素敵な一日なのにと人恋しくなる。いつかは大切な人と一緒に来よう、きっと来る。

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西方寺(さいほうじ) もとは棚尾・八柱神社の北東、旧字名「森の崎」の地に天台宗・光照寺(光正寺、興正寺との説もあり)として創建。 その後、僧念雅の代に親鸞上人の教えを受け、浄土真宗に改宗する。明応5年(1496)、15世・念法の時に現在の大浜の地に移り、寺号を西方寺と改めた。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

清澤満之記念館

「清澤満之」

西方寺の山門前に石組みの碑がある。昭和11年(1936)に清澤満之の教えを受けた弟子たちが建てた。側面には「信ずるは力なり」の文字が刻まれている。 清澤満之(きよざわまんし)は文久3年(1863)に尾張藩の士族・徳永永則の長男として生まれ、日本の仏教における近代化に貢献した人物。 西方寺との関係は、明治21年(1888)に西方寺の「清澤やす」と結婚した事による。有名な『臘扇記』(ろうせんき)は、宗門改革運動に挫折し、さらに結核を患い、西方寺へと帰った清澤満之が病床で執筆したものである。 絶筆となる『我が信念』を書き残し、明治36年(1903)6月6日、清澤満之は39歳で生涯を閉じた。 本堂の北には、平成16年(2004)に開館した「清澤満之記念館」がある。 清澤満之に関する遺品、書籍などが展示され、予約制だが清澤満之終焉の部屋・執筆の部屋を見学する事が出来る。

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