愛知県碧南市 「永井直勝生誕の地」として有名 長田一族菩提樹の「宝珠寺」

碧南市大浜北部へようこそ!

宝珠寺(ほうしゅじ)

長田重元が先祖の霊を弔うために建立 大浜を守る砦であったという説も

本堂に一本松

<「織田信長を撃退せよ!」 大浜を守る長田重元は、この宝珠寺から出撃する。大浜の港を守る砦であったとされる宝珠寺。名将・永井直勝の生誕地でもある> 湊橋起点の県道43号、通称、岡崎街道と呼ばれる道を東へ。碧海信用金庫の旧店舗である白亜の西洋館を横目に40メートル進むと見えてくる石柱、「金龍山・宝珠寺」の参道である。 簡素ながら堂々とした山門の意味は、先に見える「永井直勝 生誕地」の記念碑から読み解く。 この宝珠寺は永井直勝の父、長田重元が先祖の霊を弔うために建立した寺院を始まりとする寺である。 大浜防衛の砦である幻の城「大浜羽城」は、宝珠寺一帯であるとされる。織田信長が大浜を幾度となく攻めた時は、この大浜羽城から兵を出撃させ応戦したという。

徳本神社からのぞむ旧道

<徳本稲荷とは、あの『トクホン』? 長田重元の実弟である永田徳本を祀る社。往時の風情を見せる旧道は、大浜の良き時代を現代人に伝える素晴らしき景観を持っている> 宝珠寺北に隣接する「徳本稲荷」である。真っ赤な鳥居と大きな傘を持つもみじの緑が素晴らしいコントラストを見せる場所。 西方寺へと通じる旧道に面し、静かな佇まい。海徳寺の屋根、赤堀眼科の旧宅などが見渡せ、往時の大浜情景がそのままに残る。 乳母車を押したおばあちゃんが頻りに祈る徳本稲荷は、江戸時代初期の名医、「永田徳本」を祀る社。 永田徳本は、永正10年(1513)大浜に生まれる。徳川将軍を治癒させた時、実費以外、謝礼を一切受け取らなかった逸話が残る。 賽銭を入れる窓から社の内を覗くと、髭を生やした胸像が見えた。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

宝珠寺(ほうしゅじ) 大浜羽城を築き、大浜の港を守っていた「長田重元」が先祖の霊を弔うため、天文12年(1543)、屋敷内に香華院を建てたのが宝珠寺の始まりである。 「長田重元」は、内海から棚尾に移り住んだ「長田親致」の10代目にあたり、大浜へは大永3年(1523)に移住してきたという。 隣接する徳本稲荷の「永田徳本」は重元の弟であり、医師として活躍した。 宝珠寺墓地には「長田重元」の墓、「加藤菊女」の墓、永井直勝の永井塚、大浜の漢方医である「都築九萬」の碑などがある。 また徳本稲荷境内には、薬商・中安軒を営んでいた「磯谷安左衛門」が建てた住吉社跡の石柱がある。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

目を閉じるお地蔵さん

「みちしるべのお地蔵さん」

宝珠寺敷地内にある徳本稲荷社殿脇に鎮座するお地蔵さん。 高さ140センチ、幅51センチの一枚岩から成り立ち、 上部37センチ高、幅15センチのお地蔵さんが浮き彫りされている。 両手で宝珠を抱えるような格好、目を閉じて口角を上げ、微笑みの表情。 お地蔵さんの下部には道標として、”左 平坂道、右 大濱道”の文字が刻まれている。 このお地蔵さんの由緒・年代等は不明だが、お地蔵さん前の小道は現在の堀川沿いを走る岡崎街道の旧道にある。 東へ進む平坂と示す道は、軒先を抜ける昔ながらの雰囲気ある道。 古くは大浜羽城であった一帯、謎多い宝珠寺の歴史を読み解く面白味がある。

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