ゴツムリの森
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  僕が発病したのは七歳の頃でした。発病以前から運動音痴でいつも周りから馬鹿にされてきました。 物心ついたときから、僕の心には周りに対する劣等感があり、僕は劣等感を克服するために、 人の優位に立って、周りを見返してやりたいと思うようになりました。

  健常者の学校では障害者としていじめられてきました。 しかし、養護学校に通ってからは、立場が逆転したのです。 養護学校には僕より重度の障害を持つ子がいたので、劣等感を持つことが少なくなりました。

  劣等感を感じなくなったのもつかの間。 日を増すごとに身体の機能が衰えてきました。 身体が動かなくなっていく僕にとって言葉が武器でした。 僕は身体の機能が奪われていく怒りや悲しみを吐き捨てるかのように、 言葉による暴力を自分よりも弱いものに振るっていたのです。



 そんな中で、 この病気は二十歳前後の寿命であるという事実を知りました。 死というものをこの時はまだ漠然としか理解できませんでした。 しかし、友達の死やおじいさんの死を通して、次第に死について真剣に考えるようになりました。 考えても答えは出ませんでした。ただどうしようもない絶望と孤独に愕然としました。 誰も僕の気持ちになって話しかけてくれる人はいませんでした。 その頃ぼくは 、両親から離れて寄宿舎生活をしていました。 寄宿では通学の時間がなくなるので、自由な時間ができました。 暇なときに読んでみてと、担任の真下先生から聖書を頂きました。 聖書を開いてみましたが、人の名前が暗号のように書かれていて、 つまらない本だなと読むのをすぐにやめてしまいました。

中学に入ると、新しい顔が加わったり、森田先生と出会いがあったりして、 障害者だからといって負けてはいけないと考えるようになりました。 勉強は嫌いでしたが、勉強に集中していると死に対する恐怖や絶望を忘れることができました。

  そして努力の結果が数字で表れたときは嬉しかったです。 テストで優位に立った時は、つかのまの優越感に酔いしれてしました。 しかし、次の日からは、また次のテストに向けての勉強が待っていました。 気を抜くとすぐに順位は低下してしまうので必死になって勉強をしました。 負けたときの悔しさはなんとも嫌なもので、だから負けたくなかったのです。



  中学卒業を目前にして初めて入院を経験しました。 そして、自分の命の限界を知りました。
命の限界を知ったとき、 この世界の何を持ってしても慰められない悲しみがありました。 さらに入院の間に、クラスメイトと勉強の差ができてしまったのです。 今までの積み重ねが 、一瞬で白紙になった気がしました。 追いつきたくて必死に頑張りましたが、追いつくことはできませんでした。 これほど屈辱を味わったことは今までなく、もはや生きる気力も失っていました。

  しかし、この入院は、周りを見返したい一心で走ってきた僕にとって、 自分の生き方を振り返る良い機会となりました。 考えた結果は、「たとえ努力して他人を見返したとしても、 それは最終的には虚しい結末を迎えるだけではないでしょうか?」ということだったのです。

  僕が聖書の話を初めて聞いたときは高一の夏でした。 はじめに僕の耳に入ってきたことは、 人間は神と共に永遠に生きる存在として、 神によって創造されたということ、 人類の始祖アダムが神の命令に背き罪を犯したということ、 そして、その結果が死であるということでした。 すなわち、死の原因は病気や事故ではなく、 罪であるということです。  

  しかし、神は人間を罪と死の支配から救うために、神の御子イエスキリストを十宇架上でお裁きになりました。 すなわち、神ご自身が人間の罪の身代わりとなられたのです。そして、 神を信じて罪を悔い改める者を救うことを約束してくださいました。 『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』 永遠の生命の存在を知つたとき僕は驚きました。信じられないのと同時に、 心には喜びがありました。しかし、その時の僕には罪というものが具体的に何か、よく分かりませんでした。 『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質間して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、 だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』 ここを読んだとき、僕の心の中にある罪がはっきりと分かりました。 それは障害者に生まれたことを不幸だと思つていることでした。神は、ご自身の栄光を現す目的で、 僕を障害者として創られたのです。こんなにすばらしい賜物を頂いたのに、そのことに対する感謝もせず、 不平不満の中で生きていました。僕は何と心の貧しい人間だったのかと悔い改めました。



  僕は自分の小さなはかりで物事の優劣を決めていました。 動けない人間は不幸でしょうか。動ける人間は幸せでしょうか。 毎日きりがないほどの事件や事故が起きる世の中です。 動ける人間もいつ動けなくなるのか分かりません。 障害者だけではなく、 全ての人間がいつも不安の中にいるのです。 全ての人間が死を恐れているのです。 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。』聖書に書かれているように、 永遠の生命があるとしたらどうでしょうか。 永遠の生命を与えて下さる方を信じ受け入れることができたら、 もう死を恐れることはありません。希望を持って人生をエンジョイすることができるのです。 これこそ本当の幸せではないでしょうか。

  重度身体障害者の多くは、進路もなく在宅生活を強いられることが、当たり前でした。 しかし、その僕に職場が与えられた。障害者にとっては明るい時代がやってきました。 僕は高3年生の秋口に、クリスチャンとしてバプテスマ (洗礼)を受けました。 それ以来、多くの人と出会うようになりました。 体力の無かった僕が、こんなに活躍させていただけるようになりました。
障害は神様からの賜物です。神様は僕たち人間を目的に応じて造られた創造主です。 だから、僕たち人間が必要としているものをすべてご存じなのです。 この神様が今の僕を支えくださっています。

  そこで、イエスは答えて言われた。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。 私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
(ルカ5:29〜32)


  聖書には「罪」という言葉がたくさん出てきます。 一般的に「罪」とは、 「してはならないことをする」ことを表しますが、 聖書の「罪」は「的外れ」という意味があり、 「神が人に定められた道を踏みはずす」ことを表しています。 神様は、私たち人間を愛する対象としてお造りになりました。 しかし、私たちは神様を無視して、自分勝手に生きるようになりました。これが聖書の表す罪です。 そして、全ての人は「罪の報酬である死」を刈り取らなければならないと聖書は警告しています。

  しかし、イエス様は「罪人」を招くために来たとおっしゃいました。 イエス様は私たちを「罪の報酬である死」から救うために、私たちの身代わりとなって、 罪の裁きを十字架の上で、受け尽くして下さいました。 イエス様は私を信じる者は死んでも生きると約束して下さいました。 ぜひともこの方をご自分の救い主として受け入れる方となられますようにお勧めいたします。

  すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11:28〜30)


  この言葉は、今から2000年前に、 イスラエルで生まれたイエス・キリストの語られた言葉です。 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、政治的にも宗教的にも荒れ果て混乱状態にありました。 現在の日本も同様に、少年犯罪・幼児虐待・汚職事件などが、毎日のように起こり混乱状態にあります。 そのような環境の中に生きる私たち人間は、心身ともに疲れ切っています。
イエス・キリストは、このような私たちを救うためにこの地上に来てくださいました。 イエス様は愛する弟子に裏切られ、不正な裁判を受け、 当時の極刑である十字架刑に処せられ33年の生涯を終えました。 むち打たれ、ののしられ、馬鹿にされ、罪人として扱かわれ、非常にむごい最後を遂げられました。
しかし、神様は聖書の預言に従って、死後3日目に イエス・キリストを死人の中から蘇らせました。 それは「キリストの復活を信じる者が、ひとりも滅びることなく、永遠の生命を持つためである」と 聖書に書かれています。 この方を救い主であると信じたとき、 私たちは本当の喜びと感謝をもって生きることが 出来る者と変えられます。 みなさんもイエス様を信じる方となられますようにお勧めします。
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