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在日米海軍と依佐美送信所




                      
  
      
       (送信所に掲げられていた米海軍依佐美送信所の看板)


愛知県刈谷市にあった依佐美(よさみ)送信所は昭和4年(1929年)に設立され、日本無線電信(株) の送信所として対ヨーロッパ向け電報を送信していた。

日本無線電信(株) は昭和13年(1938年)に 国際電話(株) と合併して 国際無線通信(株)となった。

太平洋戦争開始直前昭和16年(1941年)に長波設備は日本海軍専用となり海水中に潜航している潜水艦向けの送信所として開戦電報「新高山ノボレ一ニ〇八」を送信し(詳細ほココをクリック)終戦まで使用した。

 

(250メートル8本の鉄塔(鉄塔自身はアンテナではなく、アンテナ線の支柱)


米国海軍の接収
 
昭和22年(1947年)占領軍(GHQ)は依佐美送信所の所有会社である「国際無線通信(株)」の解散を命じた、これにより依佐美送信所の無線鉄塔も解体命令が出された。しかし鉄塔の解体には多額の費用が掛かるためその処分は保留になった。

昭和25年(1950年)3月占領軍(GHQ)は突如、逆に鉄塔の解体中止命令を出した、これにより長波通信施設を米国海軍が接収することになった。
こうした動きから 国際無線通信(株)(既に解散しているため清算会社)  の第二会社として電気興行(株)がその年の6月に設立され、依佐美送信所の管理運用をすることになり無線鉄塔解体まで、47年間続いた。

電気興行(株)は昭和26年(1951年)に在日米海軍の指示に従い米国のRCA社製アンテナ線を取り付けた。旧アンテナ線は昭和22年(1947年)に断線の危険を避けるため降ろしていたため、250m8本の鉄塔のみ残っていた。
上記とともに5年間稼働していなかった各送信機器の整備もおこない、昭和27年(1952年)7月1日には送信機の運転を開始して太平洋に展開する潜水艦への送信をした。





    
(米国海軍依佐美送信所開所式  1952年9月2日 (写真1))



通信隊の駐留と撤退

1952年9月1日から米国海軍通信隊が駐留。ピアーズ海軍少佐を含む25名が駐留 して、横須賀通信隊との連絡や保守運用をおこなった。
依佐美送信所に星条旗が掲げられ送信所の呼称は U.S.Naval Radio Transmitting Facility Yosami とされた。
米国海軍依佐美送信所は 1952年9月2日に開所式をおこなった(写真1)。

コールサイン:「NDT」、 周波数:17.44kHz(戦前と同じ)、 出力:250kW(戦前は500kW) 、電波形式:当初「A1A(電信)」であったが1969年に「FSK」に変更された。
「FSK」に変更される際、従来型(高周波発電機)から「真空管式送信機」(米国「コンチネンタルエレクトロニック社」製)に変わったが「高周波発電機」も「真空管式送信機」のバックアップ用として閉鎖まで管理されていた。

電気興業の従業員は67名で、通信隊員とともに保守運用をおこなった。この1952年から1996年までの44年間、防衛施設庁は、日米安保保障条約(1951年)に基づき米軍に代わって、土地、建物、通信機器等の借料や使用料を負担した。通信隊員は専用の宿舎がなく近隣の民家等に分宿した。

駐留を始めて4年後の1956年米海軍通信隊は送信所から全員撤退し、保守運用はすべて電気興業に任せられた。

その後電気興業が米海軍の指示の基で保守運用をおこなっていたが、1993年8月に米海軍の都合により送信を中止し翌年の1994年8月44年ぶりに日本に返還された。

         
                
         (日米の国旗が掲げられる依佐美送信所本館)


地元の人たちとの融和

1964年8月20日 米海軍はオープンハウスと称し送信所内の一般公開をおこなった。

翌日21日の中部日本新聞(現中日新聞)には 「見学者で大にぎわい・刈谷依佐美送信所」との見出しで記事がある、記事の抜粋は下記。

・・・・・・・・・・ 一般公開は20日午後3時からおこなわれ、本館のほか送信機室など公開されたが、戦前は旧日本海軍の潜水艦通信、戦後も米海軍によって軍用に供されるなど長らく内部施設は秘密にされていただけにもの珍しさも手伝って約千人の観衆が押しかけ ・・・・・・・・・・ 米軍側からは家族連れのヘムリー大佐はじめ将校2人、水兵数人がこれに参加、見学者らと気さくに話し合うなどのどかな交換風景が見られた。・・・・・・・・・・
(ヘムリー大佐:当時の米国海軍依佐美送信所所長)

当時通信隊は撤退して駐留しておらず案内のため来たもよう、しかしオープンハウスはこの1回限りであった。
  
同送信所の鉄塔は近くの小学校の校歌に歌われたりするほど親しまれていたため、地元の人たちとの大きなトラブルはなかった。                 

      

         
  
         (米海軍依佐美送信所正門付近に掲げられた告知板)
  


反基地運動

佐美送信所は「米海軍」に接収され、海水中に潜航している潜水艦への送信に使われてきた、その後米国の核つき巡航ミサイル「トマホーク」を搭載した、潜水艦へ送信している施設である可能性が高いと推測された。

 そのようなことから、1963年10月 米原子力潜水艦の横須賀基寄港を契機に、初めて基地撤去の集会とデモがおこなわれた。
当時は東西冷戦時代であり、相手国から軍事施設とみなされミサイル攻撃を受ける危険性があると考えられていた。
特に1984年5月には11,500人参加の 「トマホークくるな人間の鎖依佐美大行動」 があり依佐美送信所はデモ隊に包囲された。

しかし1994年8月送信所の日本に返還にともない運動はなくなった。



      

                 (米国海軍紋章盾)


ポケモンGOで遊ぶ

1994年日本に返還されると3年後の1997年に250m8本の鉄塔は撤去された、またその8年後の2006年に本館、送信室等すべて撤去された。
現在跡地は電気興業が運営する2メガワットのメガソーラ(大規模太陽光発電所)が設置されている。

「送信所の貴重な設備を後世まで残したい」 と2007年刈谷市は2号鉄塔跡に250mの1/10すなわち25mの 「記念鉄塔」(レプリカではなく実際に使われていたものを使用)を建て市民公園 「フローラルガーデンよさみ」 と記念鉄塔の隣に 「依佐美送信所記念館」 を建設した。
同記念館は90年前の設備を原型のままの保存展示しており世界的にもめずらしく、その価値は世界遺産級と言われている。
「依佐美送信所記念館」の詳細はココをクリック。

フローラルガーデンで遊ぶ子供たちの歓声や、記念鉄塔の周りで遊ぶポケモンファンの風景に軍事基地があった面影はない。




 

   (記念鉄塔と依佐美送信所記念館・左下の赤いものは鉄塔頂上部)





(写真はすべて依佐美送信所記念館の所蔵品)


参考文献
依佐美送信所調査報告書 (中部産業遺産研究会)
高須の歴史散歩(刈谷市高須地区自治会・刈谷市高須公民館)




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