さだやっこ
Up 鈴木大拙の出会い さらさらと 仏教入門 豆腐のごとく さだやっこ 清少納言 聖徳太子 つれづれ草 お伽草子 銀河鉄道の夜 志は老いず 月へ行く道 孤村のともし火

 

瀬戸内晴美編
新時代のパイオニアたち
川上貞奴−−丸川加世子著

要約版 by Kenji Hattori

...この巻に収められた女性たちは、いわば日本の近代の夜明けに生まれ、日本の大変動期の波にのり、見事、自分の才能の花を咲かせて、私たち女性の近代の歴史の中に、女性の歩むべき道を切り開いてくれた人々であります。....
百年前の明治のはじめ、あの因習の壁にとり囲まれた女性差別の社会から、よくもこういう人々が生まれてくれたと、賛嘆せずにはいられません。

T 売れっこ芸者
よし町に「眼千両の奴」と呼ばれている粋でおきゃんな芸妓がいた。黒瞳のぱっちりした美しい眼に、千両の価値があるという意味である。

奴はよし町の芸者置屋「浜田屋」の養女で、本名は貞。よし町一番の売れっこ芸者、天下の美技で鳴らした後一時代の風雲児川上音次郎婦人となり、女優第一号となったマダム貞奴である。貞は明治4年7月15日、東京芝神明町に生まれた。
貞が浜田屋の養女となったのは、7歳の時である。養母の亀吉は、貞をきびしく仕込み磨きあげて、12歳になると小奴の名でお披露目をした。
貞を一流芸者に育て上げるのが夢の亀吉は、きびしい仕込の半面、のびのびと自由にふるまわせていた。
貞は17歳で一本になって奴と改名した。
芸者としての人気はいよいよ高く、貞は亀吉が願ったとおりの名妓となったが、花の盛りを意識すると、自分の将来を考え始めた。
亀吉は、「養い娘のおまえに芸者などさせて、本当にすまないと思っている。きっといいところへ嫁入りさせよう。花は散りぎわ、芸者はひきぎわが肝心だ。」といった。
そんな母娘の前に現れたのが、オッペケペーの川上音次郎である。
明治24年6月。浅草の中村座には、初東上の書生演劇、川上音次郎一座がかかり、大変な人気をよんでいた。「オッペケペ、オッペケペ、オッペケペッポーペッポッポー」
亀吉は芝居が終わると貞を連れて楽屋へいき、川上に引き合わせた。
熱っぽい川上の話ぶりに、芝居好きの母娘は心を奪われてしまった。
すっかり川上に惚れ込んでしまった亀吉は、川上と貞の結婚話を取り決めた。伊藤博文の承諾を得て、その年の秋には結婚という運びになった。
結婚をしたとき、川上は血気さかんな27歳、貞は花も盛りの20歳だった。
二人が結婚すると亀吉は、大金を出して川上に洋行をさせた。
亀吉は自分が選んだ娘婿の成長を願って、大金を投げ出したのだ。
翌25年(1892年)音次郎は、単身フランスへと旅だって行った。


U 日本脱出

約一年間フランスで芝居の勉強をした音次郎は、意欲に燃えて帰朝して、駒形の浅草座で興行をした。狂言『意外』をかけたのだが、これが大人気で、二百日間打ち続けた。
そして、その後の公演も大成功を納め、音次郎はすさまじい程の人気の波に乗った。
気をよくした音次郎は、自分の劇場を持ちたいと言い出した。言い出したら利かない。夫の剛毅さときかん気には、さすがの貞も歯が立たなかった。がむしゃらなのだ。
野望に燃えている夫に 、亀吉と貞は無理な金策をした。高利の付いた金まで集め、1896年に川上座を建てた。念願どおり、千人の椅子席を持つ洋風の劇場である。だがそれが夫婦の得意の絶頂で、やがて高利貸しに追い回されることになる。
旗揚げ興行は大入りなのに売上金は利子として取り上げられ、まるで実入りがない。ために退座者が続出した。
自負心が強く、激情家の音次郎は、高利貸しのしうちに腹を立て、高利貸し退治を声明して、明治31年(1898)衆議院議員選挙に立候補した。伊藤博文の後援で、にぎにぎしく出馬したが、オッペケペーまでサービスしたのに、結果は落選。それも惨敗で、後には借金の山が残り、川上座は高利貸しに差し押さえられた。
落選の挫折の上に、劇場は差し押さえられ、おまけに新聞紙上で「河原乞食の川上が、選挙に出るとは笑止な話。敗れて当然。おかげで自分の根城まで失くしたざまはどうだ...」などと愚弄、嘲笑されて、音次郎は烈火のごとく怒り狂った。そして河原乞食といわれた屈辱を、舞台の上で晴らそうと奮起した。だが、かつての仲間にそっぽを向かれたこの公演は、大失敗に終わり、音次郎は完全に打ちのめされる。
貞は、世を恨み、人を呪い、憤怒で眼をぎらつかせている夫に、「ねぇ、日本を逃げ出そうよ。二人で無人島へいきましょう」とささやいた。この際無人島で、二人きりで暮らしたいと、貞はとっぴな夢を口にした。すると夫は、「よし、行こう。波に流されて知らぬ国へ行こう。そうして二人の新しい生活を見つけよう。ボートで日本を逃げたそう」と忽ち妻の夢に乗った。
出発日が9月の大暴風雨の中というのだから、無茶苦茶である。たった十三尺のボートでこぎだし、しかも二人とも、船にはまったく無知で舵を握るのは初めてだった。貞も、死なばもろともの覚悟をつけ、必死で下田に着いた。「政戦に敗れ川上夫妻は狂人になった」の新聞記事にまた逆上して海路へ。とうとう海上を百六日間漂い、淡路島の洲本へ着いたとき、音次郎は疲労と栄養失調で半死半生だった。
この捨て身の東京脱出は「川上夫妻の情死未遂事件」と報道されて、世間を驚かせた。
同情の声も高く、選挙以来、そっぽを向けていた同志が音次郎救援に馳せ参じた。
その川上救済公演は成功したが、音次郎は、もっと大きい仕掛けを夢見ていた。
夫の胸中を察した貞は、夫にいった。「あなた、パリの大博覧会にいくきはない?二年後にパリで万国博覧会があると、ポスターが貼ってあったわ」
夫の憂うつは妻の一言でふっとび、「海外へ雄飛だ。芝居行脚だ」と金を集め、のちにアメリカ巡業の話が決まった。
明治32年川上夫妻を始め、一行十九名は、アメリカへ向かった。
船上の音次郎は「川上一座欧米巡業」の旗竿を握り締め、大海原を眺めやって大変な鼻息である。生傷だらけでボートの縁にしがみつき、「ペッポー、ペッポー」と死魚の眼で呟いていた男とは、同一人物とも思えない。ボート洋行よりはましだといった気持ちで、貞は夫の側に寄り添っていた。

V 国際女優の誕生

1899年5月13日に一行はサンフランシスコに着いた。現地で、弁護士光瀬耕作と名乗る男の斡旋で、カリフォルニア座へ出演することになった。だが一座の中に女優がいないというので、興行師が相手にしてくれない。
「お貞、舞台に立ってくれ。舞踊劇をやってくれ。そうしないと蓋開けができない」音次郎は女房に頼み込んだ。しぶしぶながら、貞は夫の願いを引き受けた。貞奴の誕生である。こうして無事に初日を出した。まずは上々のの首尾で、四日間で二千ドルの純益を上げることが出来た。「コリャ占めた。今にアメリカ中に、川上一座の名が鳴り響くぞ」と音次郎は狂喜した。しかし、運命は皮肉なもので、その五日目にホテルから劇場へ行くと、光瀬弁護士が二千ドルをもちにげして、行方不明になっていた。小屋料も払っていない。ホテルも追い出され、行き場が無い一行は、着のみ着のまま公演のベンチで、三日三晩を空腹で過ごした。乞食同様の哀れな姿に、国辱だから帰国しろと居留民はいうし、座員の中からも帰ろうとの意見も出たが、
「乗りかかった船だ。男の意地ずくだ」と音次郎は一行を連れシアトルへと向かった。その後は、大陸横断鉄道を利用し、十月にはシカゴにたどり着いた。その間、一行は十九名から十五名に減ったが、音次郎は意気軒高で、
「シカゴは大都会だ。ここで一番大芝居を打つ」と大いに張り切ったが、どこの劇場もまるで相手にしてくれない。
あと三日で全員間違いなく飢え死にするという瀬戸際へきて、川上夫妻はワシントン通りのライラック座の座主ホットンを訪ねなんとか話をつけることができた。
それから、開演までの四日間、一行は水腹で過ごした。
さて当日は、空腹でひょろひょろばったりで、『道成寺』の貞奴も、傘を持ってきりきり舞うところでばったりという惨憺たる舞台となったが、これが好評を博した。
シカゴの成功で露命をつなぎ、ボストン入りをしたが、ここで音次郎が腹膜炎にかかってしまう。貞は夫の代わりに座頭として、一座を引っ張って行かねばならない。否応なしの女優業だった。
貞は現実をたくましく割り切って、舞台に体当たりをした。舞台に立った貞は、天性の美貌に加えて、舞台度胸は満点で、素晴らしくカンがいい。もう彼女は一座の花形である。
そしてその頃から、とんとんびょうしに運が開けてきた。ワシントンでは、大統領夫人に、「世界でもっとも華麗な女の一人だ」と絶賛され、新聞紙上では、貞の日本舞踊の優美さ、妖艶さが大々的に誉め讃えられた。
ついでまわったロンドンで、一行はまた文無しになり、貞はへそくりを全部吐き出して急場を救った。
この浮き沈みの激しい明け暮れに、貞は夫を声高にののしることもあったが、心の底では夫を誰よりも尊敬し、夫の手腕を信頼していた。野性の強靭なエネルギーに振り回されながら、貞も受け身の強さを存分に発揮している。並の女なら音を上げるところを、彼女は勝気と意地で、突っ張り通した。
ロンドンでは一流のコロネット座で上演した。この興行が終わったとき、一行はバッキンガム宮殿に招待されるという光栄に浴した。
「お貞、これがバッキンガム宮殿だ。ああ今夜のこの有様を、俺を河原乞食と侮蔑した野郎どもにみせてやりたい」
宮廷に仮設された日本情緒たっぷりの舞台を見て、音次郎は目をうるませ、貞も胸を熱くした。
イギリスの王室上覧で、すっかり自信をつけた一行は、6月19日、いよいよ念願の花の都パリへ乗り込んだ。
パリ博覧会場で出演し、ここでマダム貞奴の美しさが空前の人気を呼ぶ。当時、19歳の青年画家ピカソは、貞奴の舞台姿をスケッチしている。
川上夫妻は、パリでの三等勲章をみやげにして、フランスを後にした。54日間の航海を経て、神戸に着いたのは、明治34年のめでたい元旦だった。

W 故郷へ錦

パリでの華々しい成功ぶりや、マダム貞奴の名声は、日本へ逐一知らされていたから、神戸へ着いた一行は、大歓迎を受けた。外国で名を挙げた音次郎は、立派に世間を見返したのだ。
帰国して半年もたたないうちに、今度はドイツ、イタリア、ロシア各国へ洋行した。同行した貞は、今度も大もてだった。
貞が日本の劇場に初登場したのは、明治36年二月の明治座だった。
華やかな噂のマダム貞奴の美しい舞台姿は、つめかけた客を魅了した。爆発的な人気が出て、彼女は日本初の女優として成功した。
貞は31歳の女ざかりになっていた。
女優貞奴本人は、あくまでも夫のために女優になったのであり、あふれる情熱から舞台に挑んだのではないので、せっかく人気スターの地位を占めながら、「みっともなくっていやだねぇ。早く足を洗いたい」などと欲のないことをいっていた。
音次郎は、明治39年腹膜炎を再発して死線をさまよい、二度目の開腹手術をした。
大阪でその療養中、岩下清周という男に、劇場建設をすすめられた。すっかりその気になった彼は、5万円を岩下に渡した。
果てない野望と果敢な行動力の持主である音次郎だが、天向きの彼は足元が常に留守がちで、劇場をと頼んだ金は、岩下にだまし取られた。
しかしそこで引き下がる男ではない。一文無しでありながら、早々新しい事業に向かって、彼は行動を開始した。

X 花は散りぎわ

明治43年3月、大阪堂島に帝国座を建てた。しかし帝国座の開場には、かつての川上座と同じく、借金だらけで強引に漕ぎつけたものだから、すぐそのつけがまわってきた。
47歳の音次郎にまた腹膜が襲った。
夫は一カ月ほど病床にいて、明治44年11月11日、人生の幕を静かに閉じた。
貞は40歳で未亡人となった。
栄光も挫折も共に分け合ってきた最愛の夫を失った妻は、葬儀の途中で気を失った。夫あっての妻である。
貞は借金だらけの帝国座の相談を、実業界の大立者福沢桃介に持ちかけていた。福沢桃介は福沢諭吉の娘婿で、慶応義塾の学生時代に、よし町の浜田屋とおなじみだった。貞とは旧知の仲である。
大正6年(1917)10月、貞奴は明治座の『アイーダ』を引退興行として、女優生活を辞め、福沢桃介の囲いものになってしまった。
「花は散りぎわ、舞台は引きぎわ」といったような、いさぎよい引退だった。
彼女は舞台よりも、生身の女の幸せを考えたのだ。

徒手空拳で世界に挑んだ音次郎。受け身のねばりと強靭さから、絢爛とした美しさで欧米の舞台に咲き誇った貞奴。
明治という日本の興隆期に、生き生きと激しく生きたこの夫婦は、現代人の失っている原始の情熱とバイタリティを、あざやかに示してくれて見事である。

芸者時代は伊藤博文、結婚してからは音次郎、夫と死別してからは福沢桃介と、スケールの大きい男性に愛された貞は、与えられた境遇には逆らわず、しなやかでいながら、自分の人生をたくましく肥え太らせた。
晩年の貞は福沢桃介から土地1万5千坪を貰い、昭和7年岐阜県鵜沼に貞照寺という寺を建てた。彼女は日影の身ながら福沢桃介に添い遂げ、信仰一途の明け暮れを送って、昭和21年12月17日、76歳で他界した。

((Kenji Hattori's website))