志は老いず
Up 鈴木大拙の出会い さらさらと 仏教入門 豆腐のごとく さだやっこ 清少納言 聖徳太子 つれづれ草 お伽草子 銀河鉄道の夜 志は老いず 月へ行く道 孤村のともし火

 

2003年3月9日 中日新聞 「人生のページ」を読んで

 

生涯、初心忘れず精進しよう

 

室町時代の能役者世阿弥は『花鏡』の中で次の言葉をあげている。

 

bullet

是非の初心を忘るべからず

bullet

時々の初心を忘るべからず

bullet

老後の初心を忘るべからず

 

最初の句は、若いときは未熟で失敗するが、その失敗した初心を忘れないならば、芸は上達する。

次の句は、働き盛りから老年に至る前まで、その時その時の初心を忘れないならば、芸は上達する。

第3句は、老人には老人にふさわしい芸を覚えることが老後の初心の芸である。

一生涯、初心を忘れずに生きぬけば、これが最後ということはない。芸の行き止まりをみることなく上達していく姿のまま生涯を終えることができる。

『初心を忘るべからず』は、いつも向上心を持つということである。年齢に関係なく、何歳になっても無限の向上心がその人の心の奥底にあるか否かであり、それを支えるには不断の努力をせねばならない。

人間は死に向かって生きているようなものである。いつ倒れるか分からない。大事なことは今を充実させるしかない。老後の初心を忘れずに不断の精進をすれば、志はいくつになっても老いるものではない。

(かわぐち・こうふう=愛知学院大教授、名古屋市熱田区、法持寺副住職)

 

さて、 「初心忘るべからず」とはよく聞く言葉である。では、上に掲げた言葉にあるように『老後の初心忘るべからず』とは何だろう。老後とはいったい何歳になったら老人なのだろうか。私は今年49歳になる。今も、自分だけは若いつもりでいるのだが、さすがに年には勝てず、肉体は明らかに衰えてきた。まず、白髪が目立つようになる。老眼になってくる。疲れやすい。何事にも 気力がなくなってくる。歯はがたがたになってくる。テレビでほんの2、3歳上の人を見ると中年というよりはお爺さんかと思われる人もみかける。そんな時、ふと自分もそうなのかと思い愕然とする。私は50歳にもなれば、仕事なんかやめて引退するんだ、などと思ってきた。思ってきたが実際その年齢に近くなるとまだまだという思いである。そうは言っても、やはり50歳を超えると初老なのであろう。つまり爺さんということである。世界は若い世代へと受け継がれていく。そこに老いの意味もあるが、それはさびしいことでもある。

 

老いること、その人生の黄昏にいったい初心とは何か。初心などというより、あきらめのほうが似合うのではないか。いつまでも、いつまでもがんばれでは身がもたないし疲れる。もう、休んだほうがいいような時期なのに、それでも初心とはいったい何か。言葉には『老人には老人にふさわしい』とある。そう、それはけっして若いころのような初心ではなく、老人にふさわしい初心なのである。老いを、寂しいとか、悲しいと拒否しているのではなく、しっかりと受け止めて、心はいつも新しく『初心』を忘れないように。それが、行動の原動力になる。若いということはすばらしい。それは、だれも認めることである。しかし、その若さゆえの悩みや苦しみもある。感受性が強い分、苦悩もより強烈であることを忘れてはならない。老いることは悲しいようであるけれども、何事 にも鈍感になる。喜びも鈍くなるが、同時に苦しみも鈍くなるということである。仏教でいうところの「色即是空、空即是色」である。結局、いつの世代も同じことなのである。

「初心を忘るべからず」一生涯、生きている限りその日その日を一生懸命に、それこそ不断の努力をするということ。そうすれば、「一日是好日」ということになるのである。

 KH

((Kenji Hattori's website))