豆腐のごとく
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融通無我のすすめ
豆腐の如く

斎藤茂太 著 

プロローグ 世の中が脂っこいから、いま豆腐がうまい

テレビの料理番組で司会の女性が料理を口に運びながら、言う。
「こんなおいしいのは、はじめて」
大げさな、と私は思う。事実、初めて口にしたうまさだったかもしれない。だが、はなはだしく説得力に欠ける。世界中の美味珍味であふれ返っている今の日本では、もう見え透いたお世辞にしか聞こえないのである。
「こんなおいしいもの、たべたことがない!」
この特権的な言葉を口にする資格があるのは、飢えた人間だけである。飢えを知る者にしか、本当のうまさはわからないのだ。
食に限らず、あらゆることにあてはまる人生の哲理である。
生活の豊かさ、便利さ、快適さ、それに愛情や健康にも、まったく同じことが言える。それらに対する「飢え」を知らない者は、どんなに多くを与えられても、充分な満足や喜びをそこに見いだすことができない。

腹八分目ならぬ人生100パーセント充足は必ずしも幸せではない。むしろ幸せを感じる能力を人から奪ってしまう。80で「よし」としておくことが、幸福を知るヒケツなのだ。20パーセントの不足=飢えが、80パーセントをより楽しく、より味わいあるものにしてくれるのである。

第一章 しまりがあって軟らか

軟弱大いにけっこう
ところで、日本人は軟弱と思われることをなぜか非常に恐れる民族である。豆腐的な「軟らかさ」は、非難されこそすれ、ほめられるようなものでは決して無いらしい。
「軟」や「弱」を認めない社会は野蛮である、と私は確信している。文化的に成熟した社会になるほど、軟弱を高く評価する。
一方、「硬」や「強」が尊ばれる世の中は、どこかギスギスしている。人生を楽しむよりも、無理をしたり、やせ我慢することが美徳とされる。むろん涙も禁止。死すら賛美してしまう戦争は、その典型と言えるだろう。
この、無理ややせ我慢が、精神衛生上まことに好ましくないのである。

私たちは「かくあるべし」を、家では妻や子供たちに、会社では部下に、押しつけていないだろうか。だまっておれについてくるのが女房だ....、おれの息子がこんな成績であるはずがない....、新入社員のくせに生意気な口をきくな...。
あるいは父親として、職場の上司として、「こうあらねばならない」という義務感や使命感が強すぎ、ガンジガラメの自縄自縛に陥っていないだろうか。
だからこそ、豆腐的軟らかさが大切なのである。
まわりから軟弱とバカにされようと、いい加減と非難されようと、はたまた「豆腐の角に頭をぶつけて...」と罵られても「軟らかく」身を処していく。間違っても一つの考えや思いに凝り固まるような危険は避け、あるがままの現実を認め、常に臨機応変に対処する。
純情な少年少女には難しい大人の軽やかさである。

エゴイスト万歳  我が母の超利己主義

ヒステリー性格を説明するたびに、私は同じ気持ちを味わう。まるで、自分の母親について書いているような錯覚に陥るのだ。
自己中心と自己顕示がヒステリー性格の二大特性であると述べたが、私の母ほどこの特性を自由に発揮し、また上手に利用した人間もいないように思う。
「あら、この袖.....」
と、ブラウスを広げた家内が思わず声を上げた。長袖だったはずのブラウスが、いつのまにかノースリーブに変身している。案の定、母であった。家内から借りたブラウスの袖を、今日は暑いからとバッサリ切ってしまったのだ。
心臓も止まらんばかりに驚いている家内に、
「そのほうが涼しくていいわよ」
文字どおり涼しい顔で言ったそうだ。
そう、すべてが自分本位なのである。
飛行機の窓側の席にいて、太陽の光がさし込んでくると、隣の人が窓をのぞいていようがいまいが、おかまいなしにブラインドをしめてしまう。私のような小心者にはまねのできるワザではない。隣の席でいま読書中の人も、そのうち窓の方へ目をやるかもしれない。私ならそう考え、どんなに眩しくてもジッと我慢する。
母には遠慮とか気兼ねとかいうものが一切なかった。いや、あったのかもしれないが、私のような常識人のそれとはずいぶん違っていた。
集まった仲間で一緒に食事でもという話になると、「私は食べたくない」と言い出す。ある人の自慢の手料理を賞味する会に招かれ、感想を尋ねられると、言下に「まずいわ」。まことに率直なもの言いだった。
自己中心と自己顕示というヒステリー性格の特性からすれば当然であるが、母はめったに人をホメなっかった。
八十を過ぎて南極へ旅行したとき、同行者の中に作家の小松左京氏がいた。
「いやぁ、南極のゾウアザラシはご主人に似ていたよ」
と言う小松氏に、
「アラ、あんたにそっくりよ」
とやり返す。
万事がそうだから、初対面の人は例外なくびっくりする。しかし慣れというのは恐ろしいもので、そのうち「また始まったぞ」と喜ぶようになるのだ。そんなふうに母は最後まで、多くの人に可愛がられたのではなっかたろうか。ヒステリー性格を大いに利用し、そこから多大な利益を得ていたのが母であった。

逆境から立ち上がるパワー
母の例まで持ち出して、ヒステリー性格というものを説明したには、私たちが生きるうえでこの性格が非常に大きな意味を持っているからだ。
この性格の基本は自己中心である。そこから自己顕示や派手好き、見栄っ張り、好き嫌いの激しさ、負けず嫌い、嫉妬心などが派生してくる。「自分にもヒステリー性格の特徴が当てはまる」と思う読者も多いだろう。誤解のないように言っておくと、ヒステリー的要素は特別な人だけにあるのではない。強弱の違いは当然あるが、どんな人でも性格の一部にヒステリー的な傾向を帯びている。
つまり、私たち人間は誰でも自己中心的な心を持っているのである。

もはや「強」だけではやっていけない時代なのだ。「粗大ゴミ」とか「亭主元気で留守がいい」などと言われないためにも、私たち男は、「軟」や「弱」を戦略としなければならない。豆腐の、あの申し分ない軟らかさである。昔のように肩ひじ張って威張ってみても、もう魅力的でもないし少しもカッコよくない。
思えば、苦節八十年!私のような軟弱人間が活躍する時代がようやくと到来した。こうなれば、私もそう簡単に老けてしまうわけにいかない。

マジメ人間ほど絶え間ない緊張状態にさらされるためストレスがたまりやすく、それが高じると精神的、肉体的な破綻を引き起こすことになる。流行の言葉を借りれば「プッツン」しやすい。

軟らかさもここまでくると

しかし、軟弱ならすべていいというわけではない。あまりに軟弱すぎても、魅力ある大人にはなれないのである。
荻原井泉水(せいせんすい)の「豆腐」には、こうある。
「軟らかさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもっている。」
私立中学の入学試験会場の近くを、たまたま通りかかってギョッとした。立派な体格の息子と母親が、恋人かなにかのように寄り添って歩いている。あっちにもこっちちにも。母と子が仲むつまじいのは少しも悪いことではない。しかし、その親密さが親離れ、子離れの失敗度を、そのまま物語っていることがすくなくないのである。
今風な言い方をすれば、マザコンに育ててしまう危険性が大きいのだ。そっと耳を傾けて母子の会話を聞く。息子を「ちゃん」づけしているようなら、かなりあぶない。問題なのは、母親の過保護が子供たちから「生きるパワー」を削ぎ取ってしまうからである。
マザーコンプレックスが原因で、自分ではなにもしなくなった若者が入院してきた。ドロドロのアイスクリーム状態。
一事が万事この調子では、生きる意欲や根気、勇気を、子供たちはどのようにみにつけていくのだろうか。自分で自分をささえるだけのしまりを、いかに得るのだろうか。
ときには自分を犠牲にしてわが子を守る母性愛は、確かに貴い。とことん自分を守ってくれる人がいるという安心感は、バランスの取れた心の成長には大切なものである。しかし温かな愛だけが過剰になると、溶けたアイスクリームさながら「しまり」がなくなる。型に入れる前の、歯ごたえのない、フワフワなおぼろ豆腐の如く、自分で自分を支える力が子供たちにはそなわらない。

「私が死んだら、この子はいったいどうなってしまうのでしょう」
出社拒否の一人息子の将来を案じる母親に、私は言った。
「そうしたら、息子さんはきっと治りますよ」

第二章
煮ても焼いてもよろしく

花はなぜ美しいか− 自分を好きになる方法

個性ということを考えたとき、その最も際立ったものとして思い浮かぶのが、世に言う「天才」だ。ダヴィンチ、ニュートン...およそわれわれとは次元の違う世界を生きていたように思われる才人たちは、みなとびっきりの個性派だった。
しかし、単純にそれを羨ましがってばかりはいられない。なぜなら、きわめて個性的な「天才」の多くに共通しているのは、病的かあるいは文字どおりの精神病者であった可能性が強いということなのである。

いずれにしても、このような天才として生まれるか、ありふれた凡才として生きるかは、当人の意思や好き嫌いを超えたところで決まるというのが正しいだろう。決して負け惜しみではなく、私は天才に生まれなかたことに感謝している。凡人だから天才型の波乱万丈な人生を免れ、こうして豆腐を肴にして人生を語るようなこともできる。
けれど、不運にして天才に生まれてしまったとしたら、それでも天才であるととを嘆かず、呪わず、「天才であって本当に良かった」と思いたい。一番不幸なのは、そして強いストレスにいつもさらされることになるのは、自分自身を受け入れることができず、絶えず自分に不平不満を抱く人たちである。
豆腐をなぜ、井泉水が達人の面影を持ち、自然にして自由な姿でいるというのか。それは、煮られても、焼かれても、油の中にほうり込まれても、熱いあんをかけられても、不平不満をいうことはおろか、はたから見ても立派な料理となって人々の前に登場する度量を持ち合わせているからだ。


ところで、「白雪姫」の魔法使いは自分が好きだったろうか。
おそらく世界一の美人になれなかった自分が、好きではなかったに違いない。理想と現実のあいだにあるギャップが大きいほど、自己嫌悪が強くなる。ここに、自分を好きになるというテーマの答えがある。自分を好きになるということは、ミスインターナショナルになれなくても、悩んだりしないことだ。素直に、ありのままの自分を受け入れることである。

第三章
和して味さまざま

人間関係も本質は変わらない。弱点や欠点をさらけ出し、自分のスキを敢えて見せることで相手の警戒を解き、心に近づく。気持ちは、豆腐のあの開けっ広げである。弱みなんか見せないぞと肩をそびやかすときは、相手も同様に警戒体制の中にいる。それではいつまでも仲よくはなれないのだ。

「狂乱怒涛の末に...」
ある婦人雑誌のインタビューで、家内は私たちの結婚生活をそう表現した。
私たちの、と言ったが、同時にそれは舅である茂吉、姑である輝子と同居する生活を意味している。粘着性と神経質の性格が突出した円満ならざる父。自己顕示性性格の典型の如き母。この二人に仕えたのだから、まさに狂乱怒涛であったに違いない。
それでも母を慈しんで、愚痴もこぼさず最後まで面倒を見てくれた家内には、感謝しても到底し尽くせるものではない。

ばか正直は人間関係を損なう

ウソは必ずしも悪いものではない。

人間関係では正直よりもウソのほうが役立つ。欠点や短所を正直に指摘するより、ウソでもいいからホメなさいと、私はことあるごとにお母さんの方に言ってきた。ホメられて悪い気がする人はいない。古畳のようになった女房でも、「キレだキレイだ」と毎日ホメていたら、一年以内に見違えるほど美しくなることは保証してもいい。子供を伸ばすにも、ホメてホメてホメすぎかと思うぐらいでちょうどいいのだ。
他人より、親しい者に対して、私たちの目は厳しくなりやすい。要求水準が高くなるからである。しかし100パーセント満足できるような夫も妻も、この地上には絶対にいない。「まあ、こんなものだろう。これで満足してやれ」と、仮にウソでも納得できれば、それができず、いつまでも高い要求を抱えている人とは比較にならないぐらい、幸せに近づいている。

誰もがみんな主人公

「私たち夫婦だけは愛情によって結びついている」と考えるのは幻想である。定年になり、退職金をもらったとたん、女房から三行り半を突きつけられる「定年離婚」が増えているという。子供が独立したから、もうあなたと一緒にいる必要は無いワ、と離婚届にサインを迫られる「熟年離婚」も多い。金の切れ目が縁の切れ目、子供を育てたらもう用無しヨ、とは正直な話である。夫婦愛とか家族愛というオブラートをはぎ取れば、その下には、こういう打算が隠れているのだ。
打算には「ずるい」というイメージがあるから、自己防衛本能と言い換えたほうがいいかもしれない。

よくよく考えてみると、本能のまま暮らすなら服を着る必要も無い。裸でも充分だ。人間以外の動物は、みんなそうしているのだから。人間だけがエラそうに下着や上着を身に着けるのは、自分たちの動物性を衣服というオブラートで包もうとするからだ。
私は船旅が好きで、暇を見つけては友人と誘い合い、夫婦共々船上の人となる。船旅はさぞかし退屈でしょうと言われることがある。とんでもない。仕事中毒の人には、あるいは退屈だろう。しかし人生のオブラート部分を大事に思う人間にとって、これほど変化に富んで楽しいところはないのである。
私たちは服を一日に何度も着替える。温かい地方なら、朝食の時はショートパンツにTシャツ。陸上では味わえない爽快な気分になる。昼食には、ちょっと上着をはおってネクタイぐらいは締めたほうがいい。ディナーはきちんと身だしなみを整える。男性は礼服、女性はイブニングドレスのフォーマルな晩餐も数日に一回ぐらい用意されている。いい服を着るのも、自分をカッコよく見せたいエゴイズムじゃないかと言われれば、そのとおりである。異性の目を引こうとする気持ちは無いか、と詰問されれば、わが身を振り返ってみても、決して無しとはしない。ご夫人方の目に、おしゃれで粋な紳士と映るのは無上の喜びだ。
こういうエゴイズムや本能まで無くしてしまったら、人生に楽しみは無くなる。殺伐とした自己防衛本能やエゴイズム。それを、いかにオブラートにくるんで楽しみに変えるかが、「生きるテクニック」なのだ。
豆腐にしても、たんぱく質という栄養を取るだけなら大豆をぽりぽりかじってもいい。わざわざ豆腐を作り、それをさらに焼いたり揚げたり冷やしたりするのは、たんぱく質の摂取という身もふたも無いような物を、味わいという楽しみで彩るためだ。
服装も、そういう彩りである。時と場所に応じて服を替えながら、その時々にふさわしい自分を演出していく。ゴルフ場に出る、花火見物に行く、商談相手のオフィスを訪問する。同じ私であるが、同じスタイルではない。しかしスタイルを変えているだけだ、と思ってもらっては困る。その服装が示す、それぞれの立場、役割を演じるのである。結局、人生は演技であると言っていいかもしれない。
家庭なら家庭における自分の役割をきちんと理解し、ときには自分にウソをついてでも、その役割を上手に演じていくことが肝心なのだ。

ベルが鳴る。灯が落ちる。緞帳が上がる....。
人生は舞台である。私たちは今、それぞれの舞台に立っている。家族や職場の仲間、学校の友達が共演者として、同じ舞台にいる。
そこで、「こんな芝居は面白くない」ということもできる。「お前の演技はなんてヘタなんだ」と文句を言うのも自由だ。あるいは、「こんな役はつまらない。もっと素敵な役がいいわ」と後ろを向いてしまうこともできるだろう。
だがそこで、自分の役割を巧みに演じ、演じきることを楽しめる人が、結局は「豆腐の如く」いい人生を送ることができる。
「好く出来た漢(よくできたおとこ)」、魅力的な大人は、必ずしも世俗的な成功者とイコールではない。大向こうを唸らせるような、大役者や大スターでもないだろう。しかし自分に与えられた役を楽しんで演じ家族や友達と親しみ、愉快に生きられるなら、それに勝るいいドラマはないと私は思う。

エピローグ 騰々、天真にに任す

では、良寛さんの「大愚」はどのようなものだったのだろう。有名な「生涯、身を立つるに...」の詩はこんなふうにその心境を述べている。

生涯を立身出世に汲々とする生き方は面倒だ
とぼとぼと、自然に任せて生きていたい
私にあるのは、托鉢で得た三升の米だけ
炉端にある一束の薪だけ
迷いも悟りも私にはもうどうでもいい
名誉も利益も私には関係ない
夜の雨が降る 私は草庵の中にいる
二つの脚をのんびり伸ばして座っている

難しいことを言うつもりは無い。ただ味わってもらえれば、それでいいと思う。ここにあるのは人生80パーセント主義どころか、人生0パーセント主義かもしれない。しかしそれが、何かホッとしたものを感じさせる。肩を怒らせたり、肘を張ったり、目の前の人を追い越そうと息切れするほど走ったり、そんな無理がないからだ。無理せず、自然のままで生きている姿に、私たちは不思議な懐かしさを感じる。
もっとも現代では、そんな生活は到底不可能だろう。仕事にも遊びにも忙しく動き回り、ストレスがどんどん溜まっていく。自分の欲望に追い立てられるようにして毎日を暮らしている。だからこそ、心にはこんな「清貧」のイメージを持ちたい。残りの20パーセントの心では、こういう爽やかさを忘れずにいたいのである。

おわり

((Kenji Hattori's website))