『西尾を築いた100人』
「西尾の文化財散歩」


『西尾を築いた100人』
『西尾を築いた100人』 上下巻 各1350円 1998年10月15日刊
             編集者 西尾市教育研究会社会科部
             発行所 三河新報社


藤波畷の戦いで戦死した牟呂城主

富永伴五郎忠元(1536〜1561)
家康の父松平広忠をかくまった富永忠安
善明堤の戦いで活躍した富永伴五郎忠元
藤波畷の戦いで戦死した忠元
富永伴五郎の長子半次郎忠直(幼名勝丸2才
晩年の忠安
鵜ヶ池城(鵜ヶ池邸)
廻国記念供養塔(富永七十郎)
七十郎の明鑑
年表
出典


富永伴五郎忠元(1536〜1561)

 室場小学校のすぐ北に小高い山がある。そこが牟呂(室)城跡、通称「城山」である。忠元(通称「伴五郎」)はこの城の城主を歴代つとめた富永氏の一族である。忠元の父忠安は、富永氏の五代目、忠元は六代目としてこの城を守り、ともに吉良氏の重臣として活躍した。

家康の父松平広忠をかくまった富永忠安

 家康の祖父松平(世良田)清康が死んだ後、家康の父松平宏忠は岡崎城を追われた。この宏忠が再び岡崎城へ戻る手助けをした人物の一人が忠元の父忠安である。
 1535(天文4)年12月5日、家康の祖父にあたる松平清康が尾張の守山で急死した。いわゆる「守山崩れ」という事件である。清康の子広忠は、当時わずかに10歳であった。清康の叔父である桜井の松平信定が清康の領地を奪おうとしたため、広忠広忠は、東条城主の吉良持広を頼り、持広の力が及んでいる伊勢へ逃げた。その後、宏忠は持広の助けを得て、1536(天文5)年9月16日に牟呂城にはいることができた。このとき牟呂城城主が富永忠安だった。富永氏は、東条吉良氏に仕えていたので、持広の口利きで宏忠が牟呂城に入ることができたのであろう。また、忠安の妻は、宏忠の親戚にあたるため、宏忠をかばったとも推測される。
 宏忠が牟呂城に入ったころ、岡崎城の実権を握っていたのは、先述の松平信定であった。宏忠が岡崎にもどるのを恐れた信定は、牟呂城を攻めたが、宏忠に味方する松平家臣団も多く、信定は軍勢を引いた。その後、宏忠は駿府(静岡県)の今川義元を力を借りて、翌年6月にようやく岡崎城に帰ることができたのであった。

善明堤の戦いで活躍した富永伴五郎忠元

 富永忠安の息子忠元は、父の跡を継ぎ室城主となり、父と同様東条吉良義昭に仕えた。1560(永禄3)年5月、桶狭間の戦いの後、松平元康(徳川家康)は、今川氏から離れ、信長と手を結び、三河制圧に乗り出した。
 元康は、よく561年、今川氏と結ぶ吉良氏をその支配下におくべく戦いを開始した。これに対し、東条城の吉良義昭は、松平方の上野城(豊田市)を急襲した。吉良氏の武将は、富永、瀬戸、川上、大河内などの面々である。元康は、松平好景に上野城に援軍を送ることを命じた。好景は、中島城(岡崎市)の嫡男伊忠に上野城を助けさせた。その留守を付いて、義昭の本隊が中島城をを攻めると、深溝の好景は、中島城に急行して吉良勢を撃破し、勝ちに乗じて追撃戦に移った。しかしこれは義昭の作戦であった。
 好景軍が深追いしてきたところを、室城の富永忠元が善明堤付近で退路を断ち、引き返してきた義昭の軍と好景軍を挟撃した。好景軍の多くは、池に追い立てられ、討たれたり溺れたりした。その後この池は、鎧ケ縁と呼ばれるようになった。激しい戦闘の後、好景は、主従10騎ばかりで敵中を切り抜け、中島城へ逃れようとしたが、尾崎修理の射た矢に当たって倒れ、山岡薬医に首をあげられたと伝えられている。

藤波畷の戦いで戦死した忠元

しかし、忠元たちの勝利は束の間であった。同年9月、元康は、吉良氏をその支配下に組み込むために総力を挙げて東条城に迫った。吉良義昭は、兵を東条城に集め、籠城し長期戦となった。松平勢は、十分な準備を整えた。友国、津平の砦(吉良町)に松井忠次の軍勢200、糟塚砦(平原城)には小笠原三九郎長茲がひきいる180騎を配置した。さらに西条城の酒井正親も東条城攻撃に備えた。
 同じころ小牧砦(吉良町)が完成し、本多広孝は、松井忠次、小笠原三九郎と相談し、元康の出陣を要請した。元康は直ちに出馬し、あくる日には小牧砦に本陣の旗が立てられた。9月13日、富永忠元は、籠城では勝ち目がないと判断し、城から打って出ようとした。忠元は、吉良義昭に、「いよいよ元康殿自ら出陣してきました。その軍勢は多く、わが軍の城内の兵はわずかです。勝利を得ることは難しいと思います。だが私は吉良の侍として生きてまいりました。このまま戦わずして城を明け渡すことはできません。せめて一戦交えたく思います。私が撃って出た後、ただちに城門を閉じ元康殿と話し合いに入ってくだされ。犬死にだけはなりません。」と申し出た。義昭は、黙って忠元を見送った。
 城門が開かれ忠元ら30騎あまりが突撃していった。忠元は本多勢に襲いかかり、つぎつぎに敵を倒していったが、本多勢が放った矢が肩に刺さり、さらに切りかかられた。足元は湿地で思うように動けなかったが、それでも忠元は刀を振りかざして戦った。忠元の家来の喜三郎が、忠元を助けて城内に退こうとした時、本多広孝に大きく槍でつかれ、ついに討ち死にした。この時わずか25歳の若さであった。
 数時間の戦闘の後、吉良方の武将大河内秀綱が、和睦の使者として松井忠次の陣へ向かった。城門を出ると、あたりにはおびただしい吉良方と松平方の死者が横たわっていた。そして、城を明け渡すことを条件に和睦が成立した。この戦いが藤波畷の戦いである。
 現在、忠元の戦死の地と伝えられている所には、地蔵堂が建てられている。地域の人は 伴五郎地蔵と呼んでいる。伴五郎の長子半次郎(幼名を勝丸当時2才)は家来と共に岐阜に落ち延びる。仏門にはいり、元服すると武士に戻り関西・中国・四国に渡り城持ちになり活躍する。現在は大阪にその子孫はみえる。2019年に三河の冨永家(忠安の直系)と再会する。

晩年の忠安

 諸説あるが1565(永禄8)年ごろ、松平元康は、狩りの途中、鵜ケ池にある屋敷を訪ねた。この屋敷の主は、忠元の父親である富永忠安であった。元康は、「忠安殿。父広忠が受けた恩は私にとっても恩になる。どうだろう、我が松平家に仕官いたしてくれまいか。」と申し出た。かつて、忠安が広忠を牟呂(室)城にかくまった恩を、元康は返したかったのである。しばらく考えた後、忠安は、「ありがたきお言葉。しかしながら、私は、仕えるべき主人をなくした身。栄えている松平殿にお仕えすることは、強者に尻尾をふる犬と同じ。私は犬畜生にはなりたくはございません。私は、祖先を供養し、戦いでなくした息子たちの冥福を祈りながら、余生を送っていきたいと存じます。」と答えた。
 忠安の言葉を聞く元康の心中は複雑であった。元康が、父広忠のことで、少なからず忠安に恩義を感じているのは当然のことであろう。しかし、忠安の側からすれば、元康からの仕官の申し入れを素直に受け入れられない気持ちもあったに違いない。1561(永禄4)年の藤波畷の戦いで、城を守りきれなかった吉良義昭は、降伏を申し出て、松平の軍門に下った。この戦いで、忠安は忠元ばかりか、忠元の弟、徳玄をも失った。吉良氏が、松平の家臣となったとしても、忠安にとっては自分の子の仇である。そんな思いが、元康かのの申し出を固辞させたのではないだろうか。
 元康は、そんな忠安の気持ちを察したのか、仕官の話はそれ以上進めず、鵜ヶ池に寺を建てる土地を与えた。その寺を1705(宝永2)年、西尾に移したのが現在の妙満寺(大給町)である。忠安が隠居していた鵜ケ池邸は、今はどこにあったのかさえ定かではない。
 なお、『岡崎領主古事』には、忠安は1539(天文8)年、荒川山の合戦で荒川義広と東条吉良持広が戦った際、戦死したと記されている。また、富永一族の墓は吉良町寺島の大通院にある。


                                        鵜ヶ池城(屋敷)

 鵜ヶ池城は、西尾市鵜ヶ池町地内にありましたが、位置や構造は明確ではありませんでした。『西尾市史』によると城主の富永忠安は吉良の家臣で、新城市の野田村の館から永禄七(1564)年に鵜ヶ池城に隠居し、翌年徳川家康から寺を建てる土地と寺領を安堵されて妙満寺を建てたと伝えられています。
 今回、地籍図や現地調査によって鵜ヶ池町上屋敷地内の位置が判明しました。地籍図によると鵜ヶ池城は約60m四方の方形居館で、同地には現在も冨永氏のご子息がお住まいで、隣に旧地名『妙満寺』が伝えられています。妙満寺は富永氏の菩提寺で現在は大給町に移転していますが、鵜ヶ池城と菩提寺が並列する構造であることがわかりました。地籍図を見ると鵜ヶ池城と妙満寺にそれぞれ通じる道があり、城と寺が並列な関係であったことがわかります。
 鵜ヶ池城は吉良氏滅亡後に富永氏が隠居した城の様に思われていましたが、菩提寺と居館が並び立つ構造は寺津城等吉良氏の家臣に見られる構造で、鵜ヶ池地域はただの隠居屋敷ではなく、それ以前からの富永一族の拠点のひとつであった可能性も考えられます。富永氏は室城(西尾市室町)が本拠地とされていますが、他にも岡山城(吉良町岡山)も支配しており、富永一族は、室城、鵜ヶ池城、岡山城という複数の城館を支配下に置き、幡豆郡域の一部を支配下に支配する一族として考え直す必要がありそうです。

                                出典:新編西尾市史だより 第5号 2019.2.1  西尾市史編さん室長 石川浩治 より抜粋

年表

1535 家康の祖父松平清康が守山で急死する。
1536 松平広忠が牟呂城に入城する
富永伴五郎忠元が生まれる。
1560 桶狭間の戦いで、今川義元が破れ、元康(家康)は岡崎に戻る。
1561 忠元、善明堤の戦いで、松平好景を挟撃し、活躍する。
1561 藤波畷の戦いで吉良勢は松平勢に敗れ、忠元は25歳の若さで戦死する。
1565 元康(家康)が忠安に仕官を勧めるが、忠安はこれを固辞する。
1566 富永伴五郎忠元の父富永備前守忠安死去する。


出典 『西尾を築いた100人』 上下巻 各1350円 1998年10月15日刊   
             編集者 西尾市教育研究会社会科部
             発行所 三河新報社


「西尾の文化財散歩」
(出典:「西尾の文化財散歩」 西尾市教育委員会編 昭和52年12月20日発行より)


鎧ケ淵での戦い
善明堤の戦い
松平宏忠の滞在
富永伴五郎
藤波畷の戦い
伴五郎地蔵
林松寺
妙満寺
荒川山合戦
今川氏発祥の地


松平好景の碑   下永良町鎮守

継植松碑

 下永良陣屋の西端に石柵に囲まれて松平好景の碑が立つ。碑には、「継植松碑」と額があり、好景が善明堤で討死する経緯が刻まれている。好景は家康側の武将で、」深溝城(幸田町)の城主である。

松平・吉良の対立

 永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元が敗退すると、家康は今川氏と離反祉、織田氏に接近を図った。家康は三河制覇をめざして、東条城を中心に根強い勢力を持つ吉良氏の攻略をねらっていた。
 一方今川氏真はこれに対処すべく、東条城の城主で、松平清康の妹婿である吉良義安を駿府藪田村(静岡県)へ幽閉し、西条城から吉良義昭を移した。そして西条城へは氏真の腹心牧野成貞をすえた。こうして松平対吉良の攻防戦がくりひろげられた。

鎧ケ淵での戦い

 まず、吉良義昭の本体は、好景の嫡男伊忠が守る中島城を急襲した。これを知った好景は中島城を救援すべく深溝城から出陣し、吉良勢を撃破し、勝ちに乗じて追撃戦に移った。深追いしてきた好景を待ちかまえていた吉良氏の武将で室(牟呂)城の富永伴五郎が黄金堤南の狭間で挟撃した。当時、ここは池沼となっており、激しい戦いとなったが、鋏撃を受けた好景の戦況は不利で、好景は残兵を従えて退却を余儀なくされられた。この池を戦いにちなんで鎧ケ淵と呼び、今は湿田となり、県道吉良岡崎線が貫通する。ここに戦いの記念碑がたっている。

善明堤の戦い

 逃れた好景主従は、なおも富永勢に追撃され、善明村の西の原で潰滅した。時に好景は四四歳であった。永禄四(1561)年四月一五日のこの戦いを善明堤の戦いという。
 しかし、その後家康側の反撃をうけ、西条城の陥落、藤波畷の戦い、東条城の陥落と続き、家康の三河制覇が成功した。


室城址と富永氏 室町上屋敷

室城の遺構

 室町上屋敷の、周囲を水田に囲まれた標高二〇メートル前後の小高い山の頂上に室(牟呂)城があった。いまは共同墓地になっており、古井戸と思われる直径二.五メートルほどの穴が残っている。山の北側に濠跡を思わせる水路が丘陵に沿って流れている。南麓には林松寺がある。また丘陵は東方に伸びて、その頂に神明社がある。
 築城年代は明らかではないが、隣接林松寺の由緒に、永正中(1504〜21)にすでに「牟呂城主富永佑玉」の名が見える。

松平宏忠の滞在

 この城には、一時家康の父にあたる松平宏忠が滞在したことがある。父清康の死後、織田信秀に岡崎城を攻められた宏忠は、難を逃れて伊勢・遠州懸塚を転々とした後、吉良持広の助力で、吉良氏被官である五代富永忠安の室城へ寄食した。入城は天文五(1536)年九月一六日である。しばらくは小島城にも滞在したが、のちに一旦駿府にはいり、天文六年六月には岡崎城に帰還した。滞在はわずか一年足らずである。

富永伴五郎

 城主富永氏の系図は三代資正、四代正安、五代忠安、六代忠元と続く。三代資正のときから東条城吉良氏の被官となる。四代正安が林松寺由緒に見られる佑玉にあたる人物であろうか。
 六代伴五郎忠元は、室城と共に岡山砦も兼ね、駒場・永良・貝吹の三村も領有していた。伴五郎は吉良義昭の重臣で、家康の東条城攻めのときには、北の前線として松平軍と戦った。永禄四(1561)年四月の松平好景との戦いのようすは、前述のとおりである。
 松平勢の布陣は、小牧砦(吉良町)の本多広孝、糟塚砦の小笠原長常、津平砦(吉良町)の松井忠次、西尾城の酒井正親によって固められた。家康も小牧砦に出陣し、陣頭指揮にあたった。すでに伴五郎所領の全期三か村も松平側に没収され、危機が迫っていた。

藤波畷の戦い

 伴五郎の従者は、大力の郎党喜三郎を初め、三〇余人である。伴五郎以下は藤波畷(吉良町)に出陣したが、湿田に囲まれた細い畷での混戦に敗れ、伴五郎を初め多くの郎党が戦死した。
 永禄四(1561)年九月の藤波畷の戦いで吉良側の敗北は決定的となり、余勢をかった松平軍は一気に東条城へ攻め込んだ。義昭もついに和を乞い、家康の軍門に降った。名門吉良氏の滅亡をむかえ、家康の三河制覇は確立した。

伴五郎地蔵

 伴五郎の墓は、東条城の近く、吉良町寺嶋の畑中にある。むかし、大きなエノキがあったことから榎伴五郎の異名もあり、また地蔵尊が祀ってあることから伴五郎地蔵ともいう。 なお、吉良町寺島の大通院にも立派な宝塔印塔の富永家の墓がある。

林松寺

 室城の南の麓に浄土宗西山深草派の林松寺がある。中興開山は弘治二年(1556)年、浄誉喜厳によるといわれる。院号は来迎院である。
 寺の由緒書には、、文明元(1469)年創立、最初は天台宗として室から一里ばかり離れた長篠山にあった。永正年中(1504〜21)に牟呂の城主富永佑玉殿の帰依を受けて、持仏の薬師仏を納めたお堂が建立され、供養料二石二斗余が寄進された。このため家康もまた同じ寺領を寄付された。堂主智繁僧は富永殿と協力してお堂を室村市場に移転した。城主没落の後は、山号を古城山林松寺と称し、宗派も改めて浄土宗西山派となり、碧海郡中島村崇福寺の末寺となったと書かれている。
 林松寺の薬師堂には左眼に穴のあいた龍の彫刻があり、水呑龍の伝説が伝えられている。


妙満寺  大給町

 永禄八(1565)年、富永忠安の創立で、鵜ヶ池村にあった。寛永二(1625)年、西尾城主本多俊次の乳母の信仰厚く、参詣の便をはかって、伊文天王下に移した。のち万治(1659)年、西尾城主増山正利はこの寺を菩提寺と定め、境内の狭いこともあって現在地へ移した。山号を妙高山と称し、法華宗陣門流の寺院である。
 本尊は木造十界勧請である。境内に鬼子母神堂があり、旧歴正・五・九月に祭りがある。また、りっぱな三〇番神堂がある。法華宗に独特な信仰で、一か月三〇日、毎日番台に国家人民を守護すると信じられる三〇柱善神をいう。
 広い寺領には多くの墓が立ち並ぶ。武家屋敷に囲まれていたせいか、西尾藩士の墓も多い。また、芸能関係者の墓も目をひく。なお、門前右手の久屋大黒堂の祖久七の墓もテレビのコマーシャルで話題となった。


荒川山合戦

 荒川城主(八ツ面城主)義広在城中の合戦の一つに荒川山合戦がる。これは、天文八(1538)年、荒川山の東北二キロメートルの大郷山の近くで、荒川城主荒川義広と東条城主吉良持広とが戦ったと記している。原因は、今川氏と織田氏の二大勢力が対陣している中で、五島平太夫という者が持広を織田側に取り持ったためで、今川側の義広が今川軍とともに東条側と戦った。この時、持広と家老の富永伴五郎討死したとある。
 ところで、この合戦は天文五(1536)年の西条城主吉良義郷が織田側に取り入ったことによる荒川城主義広と吉良義郷との合戦に似ていること、また、討死の状況も似ていること、さらに今川氏と親しくしてきた持広がなぜ寝返ったのかなど不可思議な点が多く、他の戦いと混同して語られているのではなかろうか。


今川氏発祥の地 今川町土井堀

 西尾中学校の校庭の南側に、今川貞世入道了俊の墓がある。この付近が今川莊の中心であったと伝えられる。
 承久の変(1221)の戦功で、足利義氏が三河の国の守護として当地方に着任し、吉良莊の守りを固めた。のち、義氏は、下野国(栃木県)足利に帰ったが、その子長氏が継ぎ、莊名に因んで吉良氏を名乗った。
 今川莊は、少年時代の長氏が、父義氏から扶持としておくられたものである。長氏は、後に今川莊を次男国氏に伝えた。国氏は莊名に因んで新たに今川氏を名乗り、今川氏の祖となった。国氏は駿河国(静岡県)に移住するが、今川姓は存続する。
 はかの主今川了俊は、今川氏三代範国の次男で、南北朝時代に北朝方の九州探題として二五年間赴任し、室町幕府の基礎づくりに貢献した。また、すぐれた歌人でもあり、「難太平記」を著わした文人でもあった。ざん言によって探題職を解任され、寂しい余生を送ったという。


(出典:「西尾の文化財散歩」 西尾市教育委員会編 昭和52年12月20日発行より)